看護師にされ戦闘員にもされた従軍慰安婦——1945年4月24日の沖縄戦
1945年4月23日から24日にかけて、浦添〜西原で米軍と日本軍の激しい戦闘が行われた。
住民は戦闘に巻き込まれ、激戦地となった南部戦線に匹敵するほどの犠牲者を出した。
写真の少女たちは激戦地で発見されたようだ。地獄を見たのだろう。二人とも表情を失っている。
沖縄県史に反映された最近の調査データによれば、浦添村の戦没者数は4,679人であり、中部市町村中で第3位だが、犠牲者の人口比では41.2%であり、西原村の48.2%(戦没者数5,026人)に次いで2番目に多い。これは首里市(42.1%)、南風原町(45.1%)、豊見城村(40.6%)、高嶺村(43.4%)など南部地区の市町村に匹敵する死亡率である。(「総務省:浦添市における戦災の状況」より)
公文書館の和訳では「女性の看護要員」となっているが、原文では「 Geisha girl nurse 」となっている。Geisha girl というのは従軍慰安婦のことだ。この写真では、慰安婦は戦闘の中を生き延びて、収容所で看護の仕事に従事していたことがわかる。
日本軍はわかっているだけでも140カ所の慰安所を沖縄に設けていた。伊江島には2カ所あった。日本軍は慰安婦に性の相手だけではなく、負傷兵の看護の役も与えた。それだけではなく戦闘時には戦闘員としても役割も強要された。
1944(昭和19)年8月2日「陣中日誌」には、10時から12時まで「特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」という記録が残っている。救急法の教育まで受けた慰安婦たちも戦闘に巻き込まれ、全員戦死した可能性が高い。
伊江島における慰安所の特徴は第一に、第32軍創設以降飛行場建設のために上陸した部隊が設置したという点、第二に、慰安所建設を急いだ理由が、兵士たちのストレス解消のためであると同時に、労働力として動員された住民と軍隊との「協力関係」を円満にするという目的もあったという点、第三に、慰安婦に戦闘参加の教育が行われ、軍隊に「性」の「慰安」を提供する以外に、戦闘員としての「動員」も準備されていた点である。
《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 185頁より》
名護市史では「全員戦死した可能性が高い」とされているが、米軍の捕虜となった後も、野戦病院、養老院、孤児院などで働いていたことわかる。