具志堅 要 のエッセイ

沖縄のシマ社会からポストモダンまで

初詣のなかった国頭村の正月

宮城栄昌の「国頭村の年中行事」(『国頭村史・別冊』1967年刊行)によると、国頭村では元日の初詣はなかったようである。

またあれだけ神拝みのさかんな沖縄でありながら、元日の初詣もなかった。ただつつましく年を送り、楽しく迎える国頭村の人々であった。(宮城栄昌「国頭村の年中行事」)

これはおそらく年末12月24日の一家の主婦が祀るヒヌカン(火の神)祭祀に対応するものだろう。この日はヒヌカンの昇天の日とされているが、それは逆に神が妻の竈のもとに訪れる日だといえる。

島袋源七『山原の土俗』(1929年)の「浜降り」の項を見ると、竈の灰で悪魔が来たことを確認すると書かれている。この場合の悪魔は「聖なるもの」の怖るべき面を表現するものといえるだろう。つまり怖るべき神の来訪を確認するのである。

それで浜降りの前に台所の竈(かまど)の中に灰を盛り、凹凸や手跡の無いようにして、これを鍋を伏せて被うて置く。もし悪魔が来たものとすれば、その灰の上に手や足の跡が残されるものだと言われている。故に三日目の晩、主婦は早速これを調べるのである。そして異常の無いのを認めて初めて安心する。(島袋源七『山原の土俗』)

国頭村の年末のヒヌカン祭祀でも竈の灰を篩で綺麗に振るうという記述が出てくる。これは浜降りと同じく神の来訪を確認するためだといえる。神を送るのではなく、逆に神を迎えるためのセレモニーだといえるのである。

国頭村でのやり方をみていると、かまどの灰をふるいできれいにふるい、解御願して鄭重に送っている。奥間などでは仏前の香炉の灰もかえている。(宮城栄昌「国頭村の年中行事」)

年末年始の期間は神が家に滞在しているので、神を祀るための初詣もその必要がなかったのである。

来訪神祭祀としての竈廻り(かままーい)

宮城栄昌(1907-1982、国頭村安波(あは)出身の歴史学者)による『国頭村の年中行事』を読んでいると、興味深い記事に出会った。それはヒヌカン(火の神)祭祀の一つの竈廻(かままーい)についての記述だ。

竈廻は火災予防儀礼と見なされているものだが、国頭村の各集落では、各家の主婦が祀るヒヌカンを訪れるのはスーデーと呼ばれる村(集落の意)の世話係で、襷掛けで鞭を持って各家を訪問した。また若者たちがホラを吹きながら夜半あるいは明け方に各家の主婦を訪れたという。スーデーの衣装は物々しいし、若者たちがホラを吹き鳴らしながら夜中に主婦を訪れるというのも、奇妙な感じがする。

まれびと神(来訪神)を唱えた折口信夫は、神が訪れるのは妻の祀る香炉(=ヒヌカン)だとした(『琉球の宗教』「七 神祭りの処と霊代と」)。カママーイが神の訪れる儀礼であったとするならば、スーデーの物々しい衣装も、若者たちの深夜の訪問も、辻褄が合うことになる。

おそらく神の出現が禁じられることにより、竈への神の訪問は火災予防儀礼に姿を変えることになったのだろう。

御願(うぐゎん)は部落の神々になされ、その後総代(すうでー)はたすきをかけて鞭(むち)を持ち、各戸を廻って火の用心を命じたものである。それに対して各戸の主婦たちは応答してその実行を約束した。国頭村の各部落では、この日から三月ころまで若者たちがホラを吹きながら、「火マチ肝要(かんのう)しんそうりよー」(火マッチの用心をするように)と唱えて歩き、夜半あるいは明方に各戸をたたいて、主婦に用心の実際をただした。宜名真では十月一日から三月三日までを竈廻期間とし、正月には各戸から肉一斤宛出して、青年たちを慰労している。
(宮城栄昌「国頭村の年中行事」『国頭村史・別冊』1967年刊行)

 

瀬戸内海にもあった通い婚

柳田國男が1927年に発表した「瀬戸内海の島々」によると、岡山県の北木島では近代以前の沖縄の民衆層における通い婚とほぼ等しい婚姻形態が採られている。

沖縄ではモーアシビからシヌビ(忍び)となり、二人の仲が固まると結婚となった。双方の親族の顔を合わせての酒盛りが結婚式であった。結婚式が終わっても婿は夜だけ妻の下に通った。子供が二三人もできた頃に女性の実家から独立して新しい家を立てた。

柳田によると「神島などでも外から來た人が、此家の娘は嫁に遣つたといふのに、どうして何時見ても内に來て働いて居るのかと、不審をしたといふ話もあつた」という。沖縄の通い婚もそのような情景だったにちがいない。

沖縄と異なるのは「子が生れさうになると大抵は男方へ引取る」というところだ。それ以外はほぼ同じ形態で、奪略婚があったのも同じだ。

このような婚姻形態は瀬戸内海一円のものだろうと、柳田は見ている。海で生きる民衆層のレベルから見ると、沖縄も日本も大きな違いはないのかもしれない。

神島(かうのしま)を以て始まる小田郡の列島の南端に、讃岐の鹽飽七島と對立して北木といふ島がある。(…)爰に報告して見たいのは前號でも問題にした婚姻の制度である。島ではオミキヲ入レルと稱して壻方の友人又は先輩が、酒を持つて娘の親に挨拶に行くと、それからは交通が公認せられる。女の家には特に一室を用意して、それに女を宿せしめ、壻殿は自由に之を訪問する。此關係が隨分久しく續くことがある。子が生れさうになると大抵は男方へ引取るらしい。但し法規の手續を履むのは引移り以後であるらしい。此風習は決して北木一島の特色では無く、もとは此海上一圓のものであつたかと思はれる。神島などでも外から來た人が、此家の娘は嫁に遣つたといふのに、どうして何時見ても内に來て働いて居るのかと、不審をしたといふ話もあつた。つまり女が盛んに働く故に、成るべく永く生家では留めて置きたい人情が、自然に武家風の輿入婚姻法を、採用することを遲くせしめたのであらう。又此隣島の白石島などには、嫁を取る一方式として奪略の遺風がつい此頃まで普通であつた。勿論親たちも取られることを多くは豫期して居たのだが、それより以外の形が無かつたらしいのを見ると、是も古くからの一慣習であつた。(柳田國男「瀬戸内海の島々」青空文庫より)

 

婚姻形態の変化とエイサーの誕生

柳田國男によると、近代以前の沖縄や日本における民衆層の結婚は、夫が夜だけ妻の下(もと)に通う通い婚から始まった。これが明治民法の公布(1898年)によってまったく逆の形態に変わる。婚姻が妻の嫁入りをもって始まると決定されるのである。

変って来た一つは婚姻が夫の家において始まるということである。すなわち嫁入がない限りは、婚姻はまだ成り立たぬもののように考える考え方である。これは民法の同居義務の解釈がこれを支持するようになって、今ではほぼ動かぬものとなって来たらしいが、以前は嫁入の前にすでに聟入というものがあって、時としてはその中間の時が二年三年も続いていたのである。

(「明治大正史世相篇」『柳田國男全集26』1990年、ちくま文庫、228ページ)

このような婚姻形態の変化は、配偶者の決定権を若者から取り上げ、家父長が決定することに対応するものだった。沖縄では青年男女のモーアシビによって配偶者が決定されたが、そのモーアシビが徹底的に禁圧されることになる。明治民法の公布は1898年のことであるが、わずか二十数年後の大正年間(1912〜26年)には社会の表面から姿を消すことになる。

柳田は婚姻制の変化が「たちまちに恋愛技術の衰微を来たし」たと記すが、モーアシビもそのようにたちまちのうちに衰微(すいび)したものの一つだといえるだろう。このモーアシビの衰微した時期に、これまでの念仏エイサーに代わる新しい芸能としてのエイサーが誕生することになる。このような時代の激変がエイサーという芸能を生み出したのだといえるだろう。

以前村々に若衆組があったのは、主として婚姻を目的としたものらしいということはこれを述べたが、一部の階級の間に起った婚姻制の変化は、たちまちに恋愛技術の衰微を来たして、次第にこの団体の存続意義は消滅し、その弊害のみがいたずらに同情なき人々の痛罵(つうば)の的となっていた。新しき青年団が生れたのはちょうどその際のことで、最初は一村に二つの団体が併立し、かつ相反目した事もあったのであるが、その若衆組もついに新しき青年団へ融合して行ったのであった。(同前、352〜353ページ)

 

エイサーは懐かしい未来を創り出すための共同作業

現代の日本人の労働観からは想像するのがむつかしいが、近代以前の日本の労働は歌とともにあり、労働とは集団で唄うことを意味するものだった。

1877年(明治10年)に来日した米国の動物学者エドワード・S・モースは日本の労働が歌とともにあったことを記している。モースによると労働時間の十分の九は集団で唄うことに費されるのだった。

運河の入口に新しい海堤が築かれつつあった。不思議な人間の杙(くい)打機械があり、何時間見ても興味がつきない。足場は藁繩でくくりつけてある。働いている人達は殆ど裸体に近く、殊に一人の男は、犢鼻褌(ふんどし)以外に何も身につけていない。杙打機械は面白く出来ていた。(…)重い錘(おもり)が長い竿に取りつけてあって、足場の横板に坐る男がこの竿を塩梅(あんばい)し、他の人々は下の錘に結びつけられ、上方の滑車を通っている所の繩を引っ張るのである。この繩を引く人は八人で円陣をなしていた(…)。変な、単調な歌が唄われ、一節の終りに揃って繩を引き、そこで突然繩をゆるめるので、錘はドサンと音をさせて墜ちる。すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唄うのは、まこと莫迦(ばか)らしい時間の浪費のように思われた。時間の十分の九は唄歌に費されるのであった。

(エドワード・S・モース『日本その日その日』青空文庫より)

このような日本人の労働スタイルは半世紀を経る間に失われていったようだ。柳田國男は『明治大正史世相篇』(1931年)で、日本古来のこのような労働のスタイルは青年団の共同作業のなかで復活していると指摘している。

問題は年とともにむつかしくなった。今までこの青年団が示して来た長所は、まず第一に働く事であった。道路改修に植林に、あるいは救難作業等に、その逞しく朗かな労働ぶりを示した事であった。晴の気持で働く共同作業の愉快さは、団員にとってもまた健全なる興味であり刺戟でもあった。この齢この境遇の者に限られた身体の剛健さが、自由に誇りまたは讃美せられるのも好機会であった。こういう張り切った気持は小学校へも感染し、一方にはまたすでに青年時代を通過した先輩たちをも動かして、少年団・壮年団の組織活躍が可能なるものとなり始めた土地も多い。青年訓練所もその指導の偏向については問題があったが、一様に共同労作の気風の涵養(かんよう)については、相応なる効果が認められる。労働の辛さを気持のよい掛け声や拍子で軽めるとは面白い国民性であると、前にもある西洋人は評したことがあるが、それは少しずつ実は衰えかかっていたのを、新たに彼等によって復活したのである。共同労働の愉快さはこうしたところにも発露しているのであった。

(「明治大正史世相篇」『柳田國男全集26』1990年、ちくま文庫、351〜352ページ)

このような柳田の文章に触れながら、沖縄の地域の青年会が演舞しているエイサーのことを思い出した。エイサーは青年たちによる集落の共同作業ともいえる。それは日本や沖縄の古来の労働観につながるものだった。

なぜ一円の得にもならないのに若者たちは仕事が終わってからエイサーの練習に汗を流すのか?それは古層の文化の現代における再構築であり、彼らは損得を超えて、「懐かしい未来」を創り出すための共同作業を行なっているのだといえるだろう。

繰り返される「戦前」:『明治大正史世相篇』から

柳田國男が『明治大正史世相篇』を著したのは1931年とほぼ百年前のことだが、その書かれていることは現代の世相に通じると思われることが多い。

近代の日本は日清戦争(1894-95)、日露戦争(1904-05)、第一次世界大戦(1914-18)とほぼ十年ごとに繰り返された対外戦争に勝利し、経済発展を遂げた。しかし第一次大戦後は経済恐慌に翻弄されることになる。そして1920年代の経済疲弊の後に、1931年の満州事変から1945年の敗戦までの十五年戦争が続くことになる。

それは高度経済成長から失われた三十年に至る現代の日本社会の姿と重なるものだといえるだろう。柳田によると、百年前の日本では貧困は孤立させられ自己責任と見做されるようになった(「貧は孤立であり、従ってその防禦も独力でなければならぬように、傾いて来ることは致し方がない」)。そして下流化する屈辱の中で他者を恨むようになる(「困苦はわれ一人に集まっているかのごとく、考えて世を恨(うら)んでいる者も非常に多い」)。

柳田の観察したこの世相から、日本は満州事変をはじめとする侵略戦争に突き進んでいくことになる。

我々の生活ぶりが思い思いになって、衣でも食住でもまたその生産でも、個人の考え次第に区々(まちまち)に分れるような時代が来ると、災害には共通のものがおいおいと少なく、貧は孤立であり、従ってその防禦も独力でなければならぬように、傾いて来ることは致し方がない。それに共同の敵と目ざすべきものがあって、これを征服すれば一時に幸福になるように、経済の方では主張する人が多くなったが、それへ進むまでには、まだ我々の利害は糾合(きゅうごう)せられていない。一方にせめて自分の家の一群だけは、まず済(すく)われたいと希(ねが)う者が多いとともに、他の一方から困苦はわれ一人に集まっているかのごとく、考えて世を恨(うら)んでいる者も非常に多いのである。

(「明治大正史世相篇」『柳田國男全集26』1990年、ちくま文庫、340ページ)

 

神の遊ぶ島:古宇利島

橋が架かる前の古宇利島。おそらくウンジャミ(海神祭)のワンシーンだろう。旗には「神遊」と書かれている。神が遊ぶ日であり神が遊ぶ島であったのだ。
神は遠い海の彼方から舟に乗って訪れるが、今の人々はその海を車で渡る。(写真は栗原滋氏撮影「1978年 今帰仁村古宇利島」)