2025年2月3日
奄美・沖縄のシマ社会というのは字単位の集落のことをいいます。シマは半ば閉ざされたミクロコスモスを形成していました。この「半ば閉ざされた」という感覚を「タビ」という言葉から考えてみたいと思います。
1992年に亡くなられた作家の干刈あがた氏は、両親が沖永良部出身の人でした。東京生まれの彼女は、1963年の二十歳のころに、初めて父母の故郷沖永良部を訪れます。そして初対面の島の親族から、タビという言葉をかけられます。それは、干刈氏が標準語として理解する「旅」とは、異なる意味の言語だったのです。
私は島言葉をはなすことはできないが、聞いてはわかる、と思っていた。東京在住者たちが話す島言葉はすべてわかった。けれど島の人たちが互いに話す早口の島言葉や、老人の島言葉は、よくわからなかった。船迎(ひなむけ)の人たちは私むけにはゆっくりと、なるべく標準語で話そうとするため変になってしまう、ぎこちない言葉で話しかけた。
その中で、何度も繰り返し出てくる「タビ」という言葉が、私の語感の「旅」とどうもぴったり重ならなかった。「タビはつらかったでしょう」というのは、七島灘を乗りこえる船旅のことかもしれないが、「タビの冬は寒いでしょう」とは、夏に来ている私への問いにしてはおかしい。
「あなたのお母さんはタビで何人子を生んだの。兄弟は何人ね」
「タビは人が多いから生活も大変でしょう。その点、島は呑気でいい」
「タビの子は肌が白いねえ」
「よくタビからお帰りになった」
どうやらタビというのは、単なる船旅とか旅立ちの旅だけではなく、島に対しての本土、本土での暮らし全体を指しているらしい。本土で二十数年暮らしてもそれは旅、そこで子を生んでもそれは旅の子、帰るべき地は島である。タビはそういう意味であるらしいことがわかった時、私の中で何かが揺れた。(干刈あがた『樹下の家族』2000年、朝日文庫、145ページ)
「船迎(ひなむけ)の人たち」というのは近しい親族を指す言葉のようです。沖永良部の人々にとって、タビという言葉は、シマの外での暮らしを意味するものでした。「帰るべき地は島である」というのは、物理的に帰る場所を言うのではなく、死後の魂の帰るべき世界を意味していました。
沖縄の人が旅を恐れないのは、「たとい魂魄となっても」必ず生まれジマに帰ってくることを信じているからだとエッセイストの関広延氏は指摘します。魂魄というのは、一般的には死者の魂という意味です。
島から出ていった人々は、明治末以来、ヤマトとは比較にならぬ比率だが、それは定着した土地に執着せぬ「海外雄飛をつねとしてきた海洋民の末裔」だからではないとぼくは信じている。むしろ、ウチナーンチュがヤマトンチュと比して、格段に〝旅〟をおそれぬようにみえるのは、信ずべき故郷・生り部落(ンマリジマ)があるからだと思う。たとい魂魄となってもかならず帰ってきて、楽々と心も躰も溶けさせて遊べる、土地と人々があることを信じて疑わなかったからだと思う。
(関広延『誰も書かなかった沖縄』1985年、講談社文庫、60ページ)
1989年の新聞の投稿欄に波照間島のソーリンムシャーマの日に故郷に帰ってきた老人の姿が描かれています。ソーリンというのは日本語の精霊(しょうろう)で、盆に迎え祀る祖霊をいいます。ムシャーマは来訪神を招く波照間における豊年祭です。つまり祖先供養と来訪神祭祀のいっしょになったのがソーリンムシャーマだといえます。
玉城行雄「ムシャーマのピン」
私はムシャーマの日(ピン)に遠くから祭りを眺めている老人に会う。すべての演目を興じ終えたいまは、望郷の念にかられた気持ちに違いない。目頭を押さえ、遠い昔を懐かしむ。ほとんど島を出る機会のなかった昔、でも昔はよかったとうなずく、死んでもソーリンムシャーマには帰ってくると信じている。(琉球新報『落ち穂』1989年8月18日)
このように、死んでも魂魄となって生まれジマに帰ってくると信じているのが、シマ社会における死生観だといえます。
干刈あがたが「船迎(ひなむけ)の人たち」からかけられた「タビはつらかったでしょう」という言葉と同じニュアンスの感情を、文化人類学の文献から見つけることができます。文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは1971年初出の論文「人種と文化」で、次のようなエピソードを紹介しています。
ドイツの偉大な民族学者クルト・ウンケルは、生涯をブラジルのインディアンに捧げ、ニムエンダジュというインディアン名で知られているが、彼が文明開化の地に長期間滞在して原住民の村に戻ると、住民たちは、生きるに価する唯一の場所だと彼らが信じている場所を遠く離れて、ウンケルがどれほどひどい苦しみを味わったかを思い、涙にくれたという。他所の文化に対する極端なまでのこのような無関心は、それらの文化が自由にそして独自に存在し続けることを保証する一つの形であった。
(クロード・レヴィ=ストロース『はるかなる視線Ⅰ』1986年、みすず書房、8ページ)
民族学者クルト・ウンケルはフィールド先のインディアンの部族で養子になり、部族の一員となります。彼が部族の地を離れ都市で本来の学者としての仕事に戻るときは、部族の人たちにとっては「生きるに価する唯一の場所」を離れることになります。そして沖永良部の人たちの言う「タビ」と同じように、タビ先での苦労をしのび涙にくれるのです。他所の文化に対する無関心さというのは、沖縄のシマ社会と同じです。
シマ社会は生死からジェンダーまで、人生のすべてが揃うミクロコスモスで、シマから一歩も外に出ることがなくとも、満ち足りた人生を全うすることができるのです。他所の文化に対するこのような無関心さは、現代的な価値観からするなら閉鎖的として批判を受けることにもなります。しかし現代的な価値観が、ファーストフードや全国的・世界的なチェーン店の立ち並ぶ、どこにでもあるような風景を生み出すとき、私たちは他所の文化に対するこのような無関心さをポジティブなものとして評価する必要にも迫られます。
レヴィ=ストロースは1970年代の段階で、資本主義社会が「亜流の作品と粗雑で幼稚な発明」に満ち溢れ、「真の創造」に耳を傾けることのなくなったことを憂えています。
人類が、かつて創造し得た価値のみの不毛な消費者となり、亜流の作品と粗雑で幼稚な発明だけを生み出すことに甘んじたくないならば、人類は、真の創造が、異なった価値観からの呼びかけに対するある意味の聴力障害を想定し、それが異なった価値観の拒否、あるいはその否定にまでもつながるものであることを、学びなおさなければならない。
(レヴィ=ストロース、同前、34ページ)
そして「創造活動が盛んだった時代」は、「コミュニケーションが、離れた相手に刺戟を与える程度に発達した時代」、つまりコミュニケーションが半ば開かれ半ば閉ざされた状態の時代だったとレヴィ=ストロースは指摘しています。
他を享受し他に融合し、他と同一化して、同時に、異なり続けることはできない。他との完璧なコミュニケーションは、遅かれ早かれ、他者のそして自分の創造の独創性を殺す。創造活動が盛んだった時代は、コミュニケーションが、離れた相手に刺戟を与える程度に発達した時代であり、それがあまりにも頻繁で迅速になり、個人にとっても集団にとってもなくてはならない障害が減って、交流が容易になり、相互の多様性を相殺してしまうことがなかった時代である。
(レヴィ=ストロース、同前、34ページ)
「相互の多様性を相殺してしまう」社会とは、企業がグローバルな規模にまで肥大した現代社会のことだといえるでしょう。多様性の相殺された社会は、陳腐な風景を生み出します。現代の沖縄は、チープな建造物が増え、安易な沖縄記号という陳腐さに覆い尽くされているといえます。陳腐さを免れるためには、他所の世界に対するある程度の無関心さが必要です。
他所の世界に対する無関心さは閉鎖性と同じものだということはできません。なぜならば、干刈あがたのいう沖永良部の「タビ」という言葉には、相手への思いやりがあります。波照間のソーリンムシャーマでは目頭の涙を見つけます。そしてインディアンの部族では相手の苦悩を思いやって涙にくれるのです。そのような相手への思いやりを失った場合には、それは閉鎖性だといえるでしょう。そして閉鎖性からは、創造的ななにものも生まれてこないのです。















