具志堅 要 のエッセイ

沖縄のシマ社会からポストモダンまで

若返りの水だったウブガー(産井)の水

羽地村(現名護市)出身の民俗学者であった宮城真治(1883-1956)によると、産まれたばかりの赤ん坊には神聖なカー(井戸)から汲んだ水を額や顎につけた〔ミジナディ:産まれた子の額に水をなでつける儀式〕。この井戸のことを首里方言ではウブガー(産井)と言った。

このウブガーはミジナディされた子どもだけではなくその子孫までもが礼拝の対象とした。正月にはウブガーの水を若水として汲んだ。その水でミジナディすると、卵から孵るように生まれ変わり、また海老や蟹が脱皮するように、若返ることができた。

おそらく沖縄のシマ社会には老いという概念が成熟することはなかったように思われる。正月を迎えるごとに生まれ変わったり若返ることが可能だったのだ。あるいは老いという概念の未成熟なことが沖縄の長寿の秘訣なのかもしれない。

重要なことはこのウブガーが特別な場所にある希少なものではなく、沖縄の集落には必ずあったもので、どこの集落にもあったということだ。聖なるものとの距離の近さが沖縄社会の特徴の一つだといえるだろう。

古代沖縄においては部落の位置があるいは水によって決定された形跡があるのは注意すべきことで、水神崇拝の信仰も自ら他より強いものがあった。 

現今における水神崇拝の行事は産水(うぶみず )の儀式に始まるのである。産水とは産湯とは些(いささ)か異なり、産児の額(ひたい)もしくは顋門(あぎと)に川もしくは井の水を付けてやることである。この儀式を水なでと称し、その趣旨は生命の根源というべき水の霊を産児に付けてこれを保護するためであるように思われる。

この水を汲んだ井や川を産(うぶ)がわと称し、その一生は勿論(もちろん)、子孫に至るまでこれを礼拝するのである。されば部落において最も神聖なる井や川が選ばれ、正月元旦にはすで水もしくは若水と称して産がわの水を汲んで来て水なでをして若返るのである。 

すでるは卵の孵化することを意味し、卵が腐敗して孵化しないのをすもるというのに対する語で、すもる(毈)は巣守る義ですでる(孵)は巣出る義である。すでるは転じて蝦(えび)・蟹(かに)等の脱皮して更生する義となり、神聖なる水には人をすでさせる力があるものとせられ、それをすで水と称したのである。

(宮城真治『山原:その村と家と人と』1987年、名護市役所、26〜27ページ)

同じ火で料理したものを食べるのが「家族」

宮城真治(1883-1956)は羽地村(現名護市)出身の民俗学者。未刊の原稿群の一部が名護市によって編集発行されている。その遺稿集を読んでいると、竈が世帯であるという記述に出会う。同じ火で料理した食べ物を共食するのが家族であるということだ。

およそ家庭には竈がある。竈のない所は家庭ではない。沖縄において世帯をけぶりということがある。けぶりは煙である。げにや世帯の中心は竈であり、煙である。一家は竈を同じくし、食物を同じくして共同生活をする団体であると言うことができるであろう。

(宮城真治『山原:その村と家と人と』1987年、名護市役所、25ページ)

柳田國男も同じ火で煮炊きしたものを食べるのが賓客をもてなす作法であったとしている。

家で食物を調理する清い火は、もとは荒神様(こうじんさま)の直轄する自在鍵(じざいかぎ)の下にあったのである。その特別の保障ある製品でないと、これをたべて家人共同の肉体と化するに足らぬという信仰が、存外近い頃まで村の人の心を暗々裡(あんあんり)に支配していた。

(柳田國男「明治大正史世相篇」『柳田國男全集26』1990年、ちくま文庫、56ページ)

おそらく戸籍や位牌祭祀が民衆化する以前は、同じ火で料理したものを食べるのが、家族であることを意味したのだろう。戸籍の普及は明治時代以降のことになるし、沖縄では位牌祭祀の民衆化も明治以降のことになる。それ以前は竈の火による共食が、家族意識を支えるおおもとだったのではないだろうか。

 

 

狂気は野生の状態では見出されない

フーコーによると「狂気は野生の状態では見出されない」。その言葉で思い出すのは、1960年代の沖縄の名護の町である。

復帰(1972年)前の沖縄では、気狂いといわれる人たちがまだ施設に収容されることなく、自由に街中を歩いていた。名護の町で有名だったのはチンチンマッソーという男性だった。マッソーというのがおそらく名前で、町の大通りを「チンチン」とつぶやきながら、空を指さして歩いていた。子どもたちは好奇心に駆られ、彼の後を付いていた。

子どもたちのあいだではチンチンマッソーは狂う前は賢い人だったとかチンチンマッソーはキリストのような顔をしているとかチンチンというのは「天天」と言っているのだとかのさまざまな解釈が交わされていた。僕たちの町の生ける神話の人だったのだ。マッソーに食事を与える人がいるともいわれていた。これは事実であったろうと思われる。マッソーは衰弱した姿を見せることなく、いつでも飄然としていたからだ。

そのマッソーの姿が復帰後の名護の町から消えた。金武町にある精神病院に収容されたのだとも聞いた。ヨーロッパでは17世紀に起きたことが、沖縄ではほぼ三百年後の1970年代に起きた。

狂気は野生の状態では見出されないものなのです。狂気は社会のなかにおいてしか存在しない。狂気は、それを孤立化する感受性の諸形態、それを排除しあるいは捕捉する嫌悪の諸形態の外に存在するものではないのです。したがって、中世には、そしてルネッサンスにおいては、狂気は社会の地平のなかに審美的あるいは日常的事実として現前しているといえる。

つづいて、十七世紀においては、——監禁が始まってからは——、狂気は沈黙と排除の時代を横切ることになる。狂気は、シェイクスピアとセルバンテス(例えば、マクベス夫人は、狂人になったときに真理を語り始める)の時代にもっていた、あの顕現と暴露の機能を失い、嘲笑すべき虚偽のものとなったのです。そして、二十世紀はついに狂気に手をつけ、世界の真理に結びついた自然現象に還元してしまった。狂気のこの実証的な所有化から派生したのは、一方では、すべての精神医学が狂人に対して顕にする侮蔑的なフィランソロピー(博愛主義)であり、他方では、ネルヴァルからアルトーにいたる詩に見出される叙情的な大いなる抗議であって、それは、監禁によって無に帰せられた深遠性と暴露の力を狂気の経験に再び与えようとするものなのです。

(ミシェル・フーコー「狂気は社会のなかにしか存在しない」『フーコー・コレクション1 狂気・理性』2006年、ちくま学芸文庫、202ページ)

ヒエロニムス・ボス《阿呆船》1490〜1500年頃

「したがって、中世には、そしてルネッサンスにおいては、狂気は社会の地平のなかに審美的あるいは日常的事実として現前しているといえる。」(フーコー)

野生の状態ではないが、近代以前の狂気は日常生活の中に含まれる当たり前の風景だったのである。人びとの笑いの対象であったが、まだ嫌悪の対象とはなっていなかったのである。

 

フランス革命の前後に精神疾患としての狂気が成立する

フーコーによるとフランス革命(1789年)の前後の時代に精神疾患としての狂気が成立する。狂気と理性の対話は決裂し、分離は確定的なものとなる。

十八世紀末における精神疾患としての狂気の成立は、対話の決裂を確認し、分離をすでに確定的なものとみなし、狂気と理性とのやりとりが行われていた、不完全で、固定的な統辞法を欠く、片言ともいえる言葉のすべてを忘却の中へと沈めてしまう。狂気についての理性のモノローグである精神医学の言語は、そのような沈黙の上にしか築かれえなかったのである。

(ミシェル・フーコー「『狂気の歴史』初版への序」『フーコー・コレクション1 狂気・理性』2006年、ちくま学芸文庫、182〜183ページ)

テオドール・ジェリコー(1791-1824)はサルペトリエールの精神病疾患者たちを描いている。このような狂気が成立することによって、近代市民社会は成立する。

テオドール・ジェリコー《ねたみ偏執狂》1822年

18世紀末から19世紀初頭にかけての施療院は動物園の収容部屋や家畜小屋のような有様だった。

テオドール・ジェリコー《狂人のステレオタイプ》1806年

狂気を隔離することによって理性的な市民社会が形成される。産業労働者に不適格な者はコストとして排除されていくのだ。

コゲルは十八世紀末のラ・サルペトリエールについて次のように述べている。「躁暴の発作がおこっている狂女たちは、その独房の扉に犬のようにしばりつけられ、見張番の女や訪問客とは鉄格子のはまっている細長い廊下でへだてられている。その鉄格子ごしに食べ物や寝床の薬が渡され、熊手をつかって、狂女たちのまわりにある汚物の一部分が、かき出されている 」。ナントの施療院では、動物園のような収容部屋が、猛獣用の個々の檻のような趣を呈している。「牢の扉を固くしめるための、こんな高価な錠前や門や鉄棒」を、エスキロールはそれまで見たことがなかった、というのである。「扉のよこにつけられた小窓には、鉄棒とよろい戸がはめられていた。その小窓のすぐ近く、壁に一本の鎖がはめこまれて、ぶらさがり、もう一方のはしには、木靴のかたちをした鋳物のうつわが付いていて、そのなかに食べ物を入れ、小窓の格子ごしにそれを渡すようになっていた 」。フォデレが一八一四年にストラスブールの施療院にやってきて、見出したのは、人間を収容する一種の家畜小屋が、あれこれと配慮され非常に巧妙なやり口で設けられていることだった。「たれ流してきたない厄介な狂人たちのために、せいぜい中背の男一人を収容できるくらいの一種の檻、小割り板でかこった戸棚のようなもの」を、大部屋のすみにそなえつける着想が生れた。これらの檻には、地面にじかに置かずに十五センチばかり高くあげて作られた簀(す)の子(こ)が、しつらえてある。そのうえに藁をすこし敷いて、「そこで、あるいは半裸の気違いが、寝たり、食べたり、大小便をしたりする…… 」。

(ミシェル・フーコー『狂気の歴史』1995年、新潮社、172ページ)

フランス革命前後に住民集団の健康が要請されるようになる

フーコーによるとフランス革命(1789年)の前後に住民集団の健康が大きなテーマとなる。資本主義における産業労働者が必要になってくるからだ。

すなわち、西欧文明における医師の地位は、十八世紀末そして十九世紀初頭に、住民集団の健康が、産業社会によって要請される経済的規範の一つとなったとき、根本的に変容したということである。
(ミシェル・フーコー『知の考古学』2012年、河出文庫、101ページ)

その結果、人口爆発が起こる。増大する人間をコントロールしたのが、フーコーによると「性的欲望」である。性的欲望は各人の個性の暗号となる。この暗号を分析することによって個人は調教(コントロール)される。

性的欲望はコントロールの対象だった。だから近代社会以前には見られないような性的禁欲がモラルとされるようになり、モラルの強化とともに性的倒錯者を生み出すことになる。

だからこそ十九世紀には、性的欲望は人間生活の最も取るに足らぬ細部にまで追跡されたのだ。それは行動の中から狩り出され、夢の中で追い廻される。僅かな狂気の影にも性的欲望の働きを疑ってみるし、幼児期の最初の年齢にまでもそれを追いつめていく。性的欲望は各人の個性の暗号となる、つまり個人を分析することを可能にするものであると同時に、個人を調教することをも可能にするものだ。
(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ知への意志』1999年、新潮社、184ページ)

 

人類の智慧であった「分かち合い」の文化

レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』「第5章 互酬原理」を読んでいると、沖縄のシマ社会の習俗と重なる部分が多い。
たとえば北極海に面するシベリア東部のヤクート族は、隣人のところに行けばたやすく食事の相伴にあずかることができたので、飢え死にする人の存在を信じることはできなかった。同じように今帰仁村の古宇利島ではお腹が空けばどこかの家で食事の相伴にあずかることができ、そのような生活も一ヶ月くらいなら批判されることもなかった。だから飢え死にする人は一人もいなかったということである。

隣人のところへ行けばいともたやすく食事の相伴にあずかれるのに、この世のどこかで人が飢え死にするとは、ヤクートにはよもや信じられなかった。(クロード・レヴィ=ストロース『親族の基本構造』2000年、青弓社、144ページ)

島の人たちは貧しかったが、飢え死にする人は一人もいなかった。またホームレスもいなかった。お腹が空けば、どこかの家に寄って朝食に、昼食に、あるいは夕食にありつけばよい。一ヶ月ぐらいなら、誰もこの生活に文句を言わない。(玉城英彦『恋島(フイジマ)への手紙:古宇利島の思い出を辿って』2007年、新星出版、194ページ)


そのような分かち合いの文化を支えたのは、独りで飲み食いする者を厳しく裁くというモラルであった。ニュージーランドのマオリ族では「儀式用料理を少しもほかの人にふるまうことなくこっそり平らげでもしたら、なしたのが男であれ女であれ、その行為は、周囲の事情と相手の人柄次第で、あてこすり、揶揄、嫌悪、軽蔑に、ときには怒りにつながりかねない感情を近親者のあいだに引き起こす」行為だった。同じように宜野湾間切(市町村に相当)の新城(あらぐすく)のシマでは、「自分の物を自分一人で食べるのは罪悪」だとされていた。つまり食べ物は分かち合うものであり、自分一人でこっそり食べることは罪とされたのである。

集団は「独りで飲み食いする」者をことさら厳しく裁く。ポリネシアの儀式的交換では、財は父方近親者集団内部で交換せずに、できるかぎり別の集団、別の村へ移動させよと規定されている。この義務を怠ることはsori tana「自分の籠から食べる」と呼ばれる。また、村の踊りで二つの地縁集団は持ち寄った食べ物を内輪で食べないこと、携えている食糧を交換し合った相手集団の食べ物を食べることが、慣習によって決っている。マオリの諺 Kai kino ana Te Arahe に登場する女のように、儀式用料理を少しもほかの人にふるまうことなくこっそり平らげでもしたら、なしたのが男であれ女であれ、その行為は、周囲の事情と相手の人柄次第で、あてこすり、揶揄、嫌悪、軽蔑に、ときには怒りにつながりかねない感情を近親者のあいだに引き起こすだろう。(レヴィ=ストロース『親族の基本構造』、144〜145ページ)

(46) 自分の物を他人と共食する風があった。女や子供の間では、自分の物を自分一人で食べるのは罪悪だという思想があった。Du chui shai munu kwéné (又は chumanja kākā shimi nē) tsiburu fugiyun (自分一人で物食うと又は他人に物欲しがらせて何もやらぬと頭に穴があく)と云う諺があった。それで子供はわずかずつでも居合わせた者に分配してそれから食べた。そうでないと Iyēshā (賤しき者という語から来たけちんぼうの意)と云うて仲間から爪弾きされた。大人の女子の間には子供同志のように露骨に他人の物を食べようとはしなかったが、しかし些少の物でも分配して食べるのが通常であった。島の家々でもまた、親族近隣盛んに食物を分配した。少しでも異常の食物はこれを分配した後食べた。(佐喜眞興英「シマの話」(1925年)『日本民俗誌大系第1巻沖縄』1974年、角川書店、150ページ)


現代の資本主義には分かち合いの原理が排除されている。分かち合うという人類の智慧が失われているのだ。

初詣のなかった国頭村の正月

宮城栄昌の「国頭村の年中行事」(『国頭村史・別冊』1967年刊行)によると、国頭村では元日の初詣はなかったようである。

またあれだけ神拝みのさかんな沖縄でありながら、元日の初詣もなかった。ただつつましく年を送り、楽しく迎える国頭村の人々であった。(宮城栄昌「国頭村の年中行事」)

これはおそらく年末12月24日の一家の主婦が祀るヒヌカン(火の神)祭祀に対応するものだろう。この日はヒヌカンの昇天の日とされているが、それは逆に神が妻の竈のもとに訪れる日だといえる。

島袋源七『山原の土俗』(1929年)の「浜降り」の項を見ると、竈の灰で悪魔が来たことを確認すると書かれている。この場合の悪魔は「聖なるもの」の怖るべき面を表現するものといえるだろう。つまり怖るべき神の来訪を確認するのである。

それで浜降りの前に台所の竈(かまど)の中に灰を盛り、凹凸や手跡の無いようにして、これを鍋を伏せて被うて置く。もし悪魔が来たものとすれば、その灰の上に手や足の跡が残されるものだと言われている。故に三日目の晩、主婦は早速これを調べるのである。そして異常の無いのを認めて初めて安心する。(島袋源七『山原の土俗』)

国頭村の年末のヒヌカン祭祀でも竈の灰を篩で綺麗に振るうという記述が出てくる。これは浜降りと同じく神の来訪を確認するためだといえる。神を送るのではなく、逆に神を迎えるためのセレモニーだといえるのである。

国頭村でのやり方をみていると、かまどの灰をふるいできれいにふるい、解御願して鄭重に送っている。奥間などでは仏前の香炉の灰もかえている。(宮城栄昌「国頭村の年中行事」)

年末年始の期間は神が家に滞在しているので、神を祀るための初詣もその必要がなかったのである。