具志堅 要 のエッセイ

沖縄のシマ社会からポストモダンまで

タビと旅——他所の文化に対する無関心さが創造的な文化を創り出す

 2025年2月3日

奄美・沖縄のシマ社会というのは字単位の集落のことをいいます。シマは半ば閉ざされたミクロコスモスを形成していました。この「半ば閉ざされた」という感覚を「タビ」という言葉から考えてみたいと思います。

1992年に亡くなられた作家の干刈あがた氏は、両親が沖永良部出身の人でした。東京生まれの彼女は、1963年の二十歳のころに、初めて父母の故郷沖永良部を訪れます。そして初対面の島の親族から、タビという言葉をかけられます。それは、干刈氏が標準語として理解する「旅」とは、異なる意味の言語だったのです。

私は島言葉をはなすことはできないが、聞いてはわかる、と思っていた。東京在住者たちが話す島言葉はすべてわかった。けれど島の人たちが互いに話す早口の島言葉や、老人の島言葉は、よくわからなかった。船迎(ひなむけ)の人たちは私むけにはゆっくりと、なるべく標準語で話そうとするため変になってしまう、ぎこちない言葉で話しかけた。
その中で、何度も繰り返し出てくる「タビ」という言葉が、私の語感の「旅」とどうもぴったり重ならなかった。「タビはつらかったでしょう」というのは、七島灘を乗りこえる船旅のことかもしれないが、「タビの冬は寒いでしょう」とは、夏に来ている私への問いにしてはおかしい。
「あなたのお母さんはタビで何人子を生んだの。兄弟は何人ね」
「タビは人が多いから生活も大変でしょう。その点、島は呑気でいい」
「タビの子は肌が白いねえ」
「よくタビからお帰りになった」
どうやらタビというのは、単なる船旅とか旅立ちの旅だけではなく、島に対しての本土、本土での暮らし全体を指しているらしい。本土で二十数年暮らしてもそれは旅、そこで子を生んでもそれは旅の子、帰るべき地は島である。タビはそういう意味であるらしいことがわかった時、私の中で何かが揺れた。

(干刈あがた『樹下の家族』2000年、朝日文庫、145ページ)


「船迎(ひなむけ)の人たち」というのは近しい親族を指す言葉のようです。沖永良部の人々にとって、タビという言葉は、シマの外での暮らしを意味するものでした。「帰るべき地は島である」というのは、物理的に帰る場所を言うのではなく、死後の魂の帰るべき世界を意味していました。

沖縄の人が旅を恐れないのは、「たとい魂魄となっても」必ず生まれジマに帰ってくることを信じているからだとエッセイストの関広延氏は指摘します。魂魄というのは、一般的には死者の魂という意味です。

島から出ていった人々は、明治末以来、ヤマトとは比較にならぬ比率だが、それは定着した土地に執着せぬ「海外雄飛をつねとしてきた海洋民の末裔」だからではないとぼくは信じている。むしろ、ウチナーンチュがヤマトンチュと比して、格段に〝旅〟をおそれぬようにみえるのは、信ずべき故郷・生り部落(ンマリジマ)があるからだと思う。たとい魂魄となってもかならず帰ってきて、楽々と心も躰も溶けさせて遊べる、土地と人々があることを信じて疑わなかったからだと思う。

(関広延『誰も書かなかった沖縄』1985年、講談社文庫、60ページ)

1989年の新聞の投稿欄に波照間島のソーリンムシャーマの日に故郷に帰ってきた老人の姿が描かれています。ソーリンというのは日本語の精霊(しょうろう)で、盆に迎え祀る祖霊をいいます。ムシャーマは来訪神を招く波照間における豊年祭です。つまり祖先供養と来訪神祭祀のいっしょになったのがソーリンムシャーマだといえます。

玉城行雄「ムシャーマのピン」 
私はムシャーマの日(ピン)に遠くから祭りを眺めている老人に会う。すべての演目を興じ終えたいまは、望郷の念にかられた気持ちに違いない。目頭を押さえ、遠い昔を懐かしむ。ほとんど島を出る機会のなかった昔、でも昔はよかったとうなずく、死んでもソーリンムシャーマには帰ってくると信じている。(琉球新報『落ち穂』1989年8月18日)

このように、死んでも魂魄となって生まれジマに帰ってくると信じているのが、シマ社会における死生観だといえます。

干刈あがたが「船迎(ひなむけ)の人たち」からかけられた「タビはつらかったでしょう」という言葉と同じニュアンスの感情を、文化人類学の文献から見つけることができます。文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは1971年初出の論文「人種と文化」で、次のようなエピソードを紹介しています。

ドイツの偉大な民族学者クルト・ウンケルは、生涯をブラジルのインディアンに捧げ、ニムエンダジュというインディアン名で知られているが、彼が文明開化の地に長期間滞在して原住民の村に戻ると、住民たちは、生きるに価する唯一の場所だと彼らが信じている場所を遠く離れて、ウンケルがどれほどひどい苦しみを味わったかを思い、涙にくれたという。他所の文化に対する極端なまでのこのような無関心は、それらの文化が自由にそして独自に存在し続けることを保証する一つの形であった。

(クロード・レヴィ=ストロース『はるかなる視線Ⅰ』1986年、みすず書房、8ページ)


民族学者クルト・ウンケルはフィールド先のインディアンの部族で養子になり、部族の一員となります。彼が部族の地を離れ都市で本来の学者としての仕事に戻るときは、部族の人たちにとっては「生きるに価する唯一の場所」を離れることになります。そして沖永良部の人たちの言う「タビ」と同じように、タビ先での苦労をしのび涙にくれるのです。他所の文化に対する無関心さというのは、沖縄のシマ社会と同じです。

シマ社会は生死からジェンダーまで、人生のすべてが揃うミクロコスモスで、シマから一歩も外に出ることがなくとも、満ち足りた人生を全うすることができるのです。他所の文化に対するこのような無関心さは、現代的な価値観からするなら閉鎖的として批判を受けることにもなります。しかし現代的な価値観が、ファーストフードや全国的・世界的なチェーン店の立ち並ぶ、どこにでもあるような風景を生み出すとき、私たちは他所の文化に対するこのような無関心さをポジティブなものとして評価する必要にも迫られます。

レヴィ=ストロースは1970年代の段階で、資本主義社会が「亜流の作品と粗雑で幼稚な発明」に満ち溢れ、「真の創造」に耳を傾けることのなくなったことを憂えています。

人類が、かつて創造し得た価値のみの不毛な消費者となり、亜流の作品と粗雑で幼稚な発明だけを生み出すことに甘んじたくないならば、人類は、真の創造が、異なった価値観からの呼びかけに対するある意味の聴力障害を想定し、それが異なった価値観の拒否、あるいはその否定にまでもつながるものであることを、学びなおさなければならない。

(レヴィ=ストロース、同前、34ページ)

そして「創造活動が盛んだった時代」は、「コミュニケーションが、離れた相手に刺戟を与える程度に発達した時代」、つまりコミュニケーションが半ば開かれ半ば閉ざされた状態の時代だったとレヴィ=ストロースは指摘しています。

他を享受し他に融合し、他と同一化して、同時に、異なり続けることはできない。他との完璧なコミュニケーションは、遅かれ早かれ、他者のそして自分の創造の独創性を殺す。創造活動が盛んだった時代は、コミュニケーションが、離れた相手に刺戟を与える程度に発達した時代であり、それがあまりにも頻繁で迅速になり、個人にとっても集団にとってもなくてはならない障害が減って、交流が容易になり、相互の多様性を相殺してしまうことがなかった時代である。

(レヴィ=ストロース、同前、34ページ)

「相互の多様性を相殺してしまう」社会とは、企業がグローバルな規模にまで肥大した現代社会のことだといえるでしょう。多様性の相殺された社会は、陳腐な風景を生み出します。現代の沖縄は、チープな建造物が増え、安易な沖縄記号という陳腐さに覆い尽くされているといえます。陳腐さを免れるためには、他所の世界に対するある程度の無関心さが必要です。

他所の世界に対する無関心さは閉鎖性と同じものだということはできません。なぜならば、干刈あがたのいう沖永良部の「タビ」という言葉には、相手への思いやりがあります。波照間のソーリンムシャーマでは目頭の涙を見つけます。そしてインディアンの部族では相手の苦悩を思いやって涙にくれるのです。そのような相手への思いやりを失った場合には、それは閉鎖性だといえるでしょう。そして閉鎖性からは、創造的ななにものも生まれてこないのです。

半ば閉ざされた経済システムとしてのマチヤグヮーと共同売店

 2025年1月26日

嘉陽共同店(「愛と希望の共同売店プロジェクト」より)

共同売店というのはシマが出資して運営する店のことです。シマというのは、沖縄の平民の集落をいいます。近代以前のシマは土地を共有管理し、珊瑚礁に囲われた内海のイノーを海の畑として豊かな漁獲を得ていました。私的所有という概念が未成熟な社会であり、シマ自体が世界であるというミクロコスモスを形成していました。

共同売店は、買い物だけではなく、シマの人々のコモンとしての憩いの場となっています。

「共同売店ファンクラブ」のホームページによると、

共同売店とは、明治末期の沖縄で誕生し、共同購入を中心に様々な事業を行なってきた独特の相互扶助組織です。というとちょっと難しく聞こえるかもしれませんが、もう少し分かりやすくいうと、「ムラのみんなで作って、みんなで運営しているお店」です。

「ムラ」と言っても現在の市町村の「村」ではなく、徒歩圏内の、顔の見える範囲である「集落」(字、小字、班)ごとに設立されており、全戸(または一部)が共同で出資し運営を行ないます。全員が出資者であり利用者でもある点は、現在の農協や生協など協同組合と同じ仕組みですが、それよりも古く、明治の終わりから100年以上続く独自の歴史を歩んできました。

© 共同売店ファンクラブ Kyodo-baiten Fanclub 2025

 

共同売店は近代に沖縄島の山原と呼ばれる国頭郡のシマ社会を中心に形成されます。

シマ社会になぜコモンとしての店舗が出来上がったのでしょうか。その謎を解く鍵の一つに、シマの人々がすべての用をシマで足す傾向にあったことが挙げられます。

沖縄では1960年代に水田が急速に消滅し、食糧の自給自足体制が崩れていきます。自給自足が崩れ、貨幣経済に巻き込まれていくにも関わらず、シマの人たちは共同売店で用を足そうとするのです。

エッセイストの関広延氏は「その部落に住む人たちが、部落外に出てゆくことが少いのは驚くほどだ」という事実を観察しています。この文章の初出は1973年です。その時代でもシマの人々は「すべての用を部落の内で足してしまう」のです。

沖縄の部落は、すでにはやくから同胞すべての生を支えてきた根拠を失っている。しかもその部落に住む人たちが、部落外に出てゆくことが少いのは驚くほどだ。
もちろん、いま部落に多いのは老人たちである。この人たちこそ、文字どおり自給自足に近い部落の姿を眼のあたりに知っている人たちであるが。この人たちは、ほんとに部落を出ない。現在、部落で自給できる生活の資は、まことに微々たるものであるけれども、食料や日用品の仕入れなどに他処に赴くことは〝スーパー〟となった街屋小(マチヤグヮー)(あるいは、共同売店)にまかせ切って、自分たちはすべての用を部落の内で足してしまう。

関広延『誰も書かなかった沖縄』1985年、講談社文庫、54ページ


マチヤグヮーは地域の雑貨店で、『沖縄大百科事典』によると、消費者とのあいだに密接なひいき関係を持っており、日常生活に不可欠な存在であるとされるものです。

マチヤグヮー 住宅地に隣接し、日常の生活に必要な商品を販売している小規模な家族経営の雑貨店(コンビニエンス・ストア)。主として食料品、日用雑貨に加えて、煙草・酒類・塩などの専売品、野菜、果実などの青果物など、生鮮食料品以外はすべて取り扱っているところに特徴があり、ミニ・スーパーとしての役割を担っている。消費者とのあいだに密接な愛顧関係をもっており、日常生活に不可欠な存在である。

清村英夫『沖縄大百科事典 下巻』1983年、沖縄タイムス社、519ページ

写真は栗原滋氏撮影による1986年の勝連町津堅島のマチヤグヮーです。

マチヤグヮーは共同売店とともに、地域コミュニティと密接に結びつくコモンでした。マチヤグヮーと共同売店との違いは、家族経営であるのかシマ・コミュニティの運営によるものかという違いだけで、地域コミュニティのコモンとしての機能を果たしていたところは同じだといえるでしょう。

絵は金城明一氏による《備瀬のマチヤ》で、1990年5月に描かれたものです。この小さなお店の中に、多くの人の人生や宇宙のすべてが詰まっているのだといえるでしょう。

マチヤグヮーや共同売店は、シマが世界であり宇宙であるという、半ば閉ざされたシマ人の感性が、創り上げたシステムだといえるでしょう。

この半ば閉ざされた経済システムは、過疎化などによりシマ社会の紐帯がゆるむ中で、厳しい経営を迫られています。しかし逆の見方をすると、この半ば閉ざされたシステムこそが、ポスト資本主義のモデルになるのだともいえます。

資本主義は自給自足的なコミュニティを破壊することによって成長を遂げてきました。しかし破壊すべきコミュニティを失ったとき、資本主義はまるでブレーキの効かない車のように、暴走を始めてしまいます。果てることのない戦争、そして生態系の破壊は、資本主義の暴走を物語るものだといえるでしょう。しかし資本主義はマーケットの拡大を自己目的化しますので、半ば閉ざされたマーケットが出現すると、大きくブレーキがかかることになります。

資本主義が暴走を始めた現代の世界において、半ば閉ざされた経済システムである共同売店やマチヤグヮーは、ポスト資本主義を見据えた新たな経済活動のモデルになる力を秘めているのだといえます。

現在の経済学に、生態系の持つ価値、文化を創造する価値、生と死の神秘に対する価値、などを加算すると、グローバルな資本主義よりも共同売店やマチヤグヮーの方がコストパフォーマンスに優れているのは明らかです。

このような経済学を樹立することにより、共同売店やマチヤグヮーとともに、シマ社会も存続する基盤を固めるのだといえるでしょう。

名前をもたない神々

 2025年1月12日

宗教のネットワークのない沖縄のシマ社会

シマというのは アイランドとしての島 のことではありません。字(あざ)単位の 沖縄のコミュニティのことを いいます。

沖縄のシマと日本のムラと社会構造はよく似ています。ところが大きな違いがあります。それはシマの神様には 名前らしい名前がないということです。

南西諸島鉱物資源調査写真《1938年、宮古島》 (沖縄県公文書館所蔵資料)

写真は1938年の宮古島の聖域にお籠りする女性たちを写したものです。沖縄の聖域はこの写真のように、社殿や鳥居などもなく、神の名もないものが少なくありません。たとえば1713年に成立した『琉球國由来記』には、「イベヅカサ」などのようにイベという言葉がついた神の名が たくさん出てきます。ヅカサは司(つかさ)で。司る者の意味です。イベの音声表記はイビで、神の依代(よりしろ)としての 霊石(れいせき)や霊木(れいぼく)、あるいは杜(もり)の中の神の坐(いま)す 神聖なところを意味します。聖域にある石や木などを指す言葉が神の名とされているのです。

日本のムラのお寺や神社には観音菩薩(かんのんぼさつ)とか イザナギなどという名前の神様がいます。沖縄のシマにはそのような固有名詞をもつ神はほとんどいないのです。

なぜでしょうか。それは、他のシマの神と自分のシマの神とを区別する必要がなかったからだといえます。シマの人たちは自分たちのシマの神だけを拝みます。ですから、神は神であるというだけで十分であり、それ以上の説明は必要なかったのです。

南西諸島鉱物資源調査写真《1938年、宮古島》 (沖縄県公文書館所蔵資料)

日本のムラと沖縄のシマの違いは、信仰が日本では、ヒエラルキーのネットワークに組み入れられているのに対し、沖縄では、組み入れられていないという点にあります。

日本のムラのお寺や神社の仏像や神様には名前があります。名前があることによって、ネットワークの中を流通していくのです。
沖縄のシマには、信仰というヒエラルキーのネットワークは形成されていません。各シマの神を統一するような宗教は存在しておらず、シマは各自の神を崇拝しています。
そのため隣のシマの神とさえ共通する信仰をもたず、互いに異なる神を信仰することになります。
沖縄の社会を理解し、把握するためには、沖縄のシマの神々には、固有の名前がないのだということを初めに理解する必要があります。
イメージとしては、日本のムラの神社や寺が全国的なネットワークを持つのに対して、沖縄のシマの宗教には、そのような全国的なネットワークはありません。沖縄県レベルでのネットワークもなく、市町村単位のネットワークさえありません。シマという字単位のコミュニティの内部だけで成立する宗教なのです。

シマとミール——資本主義消滅後の未来社会

 2025年1月5日

沖縄のシマとロシアのミールがその心持ちまで一致していると指摘したのは、大正時代の沖縄研究者で、裁判官でもあった佐喜真興英(1893-1925)です。
シマというのは沖縄の平民層の村落共同体で、近代以前は土地の共有制度を持っていました。ロシアのミールも農民の共同体で、同じく土地の共有制度を持っていました。佐喜真は生まれ故郷の宜野湾間切のアラグスクのシマの民俗を『シマの話』(1925年)としてまとめました。

戦前(1944年)の宜野湾村と普天間飛行場の重ね図(2016年8月13日、沖縄タイムス」)

宜野湾間切というのは現在の宜野湾市のことです。新城(アラグスク)のシマは宜野湾市の東北部に位置します。地図でもわかるように以前のアラグスクのシマは、その大部分が普天間基地に飲み込まれています。
『シマの話』ではシマという社会構造を説明するのに、ロシアのミールを比喩として用いています。

琉球語のシマには二義ある。一は島(Island)の意、他は国の意である。オモロにはシマとクニとは対語としてよく用いられている。(中略)シマの語は学者間に知られたロシア語のミイルに相当するように思う。しかもシマが国又は村落共産体を意味するごとくミイルもまた世界又村落共産体を意味するとの事であるから(Laveleye Ureigentum による)両語はその心持ちまで一致しているようである。

(佐喜眞興英『シマの話』1925年)

セルゲイ・コローヴィン『ミールの集い』1893年

シマの集落がそのまま国家を意味するように、ミールもコミュニティがそのまま世界を意味するものでした。そして両者は村落共産体という形態をとります。

ミールというのはロシアの農村共同体のことです。古くから自治的機能をもち、長老の選出、租税・小作料などの負担の責任、耕地の定期割り替えなどを行いました。ミールについては諸説ありますが、1917年のロシア革命によって消滅したとされます。ミールの成員は集会を開いて長老を選挙し、ミール内部のことは自主的に取決めました。絵はその集会を描いたものです。

写真は名護市嘉陽集落の地区会館と共同店です。近代以前のシマの自治は村屋(ムラヤー)によって行われました。そのムラヤーが地区会館や公民館という名称に変わったものです。左側の建物の「共同店」はシマが出資して運営するものです。

沖縄のシマの政治もミールと同じようにほとんどが住民自治によるものでした。戸主会が議決機関であり、シマの公的な事柄が決議されました。そして意見が一致しない時には、多数決によるのではなく、全員が納得するまで話し合いが続けられました。

島の政治は、(中略)実質的には全然島人の自治に依ったのである。島には地人寄り合い(ジンチュ、ユレー。地人会議)と云うものがあって、島の大小の公事を決議し、ある時には判決のようなものを与えた。 地人寄り合いは島のほとんど中央に立てられた村屋(島の公務所)で開かれるのが常であった。(中略)議事の方法については特別に記すべきことなく、甲論乙駁有力な輿論と見るべきものが採用された。従ってある意味においては島(シマ)内の有力者の専制に終わることもあったが、事の性質上著しく個人の利害に関係し、その個人が猛烈に反対したときは激しく長く論議が続けられ、個人の利害も相当に顧(かえり)みられた。地人寄り合いで決議されたことは、よく守られた。(佐喜眞、同前)

地人寄り合いで決議されたことは、絶対に守らなければならないものでした。
佐喜眞によると、ロシアのミールには、「神のみがミイルを裁く」「ミイルの決したる事は何事も必ず行われざるべからず」「ミイルの鼻息は岩をも通す」という諺がありました。それはシマの決議にも通じるものだったのです。

哲学者の斎藤幸平氏によると、晩年のカール・マルクスはミールの土地の共同所有を評価し、「近代社会が指向している経済制度の直接の出発点となることができ」るとしました。
マルクスは 『資本論第1巻』(1867年)を刊行した後、第2巻、第3巻を刊行することなく16年後に病没(1883年)します。しかしマルクスの研究は弛(たゆ)むことなく進んでいました。
1881年に書かれたロシアの女性革命家ヴェラ・ザスーリチ宛の手紙の草稿には、ミールが資本主義を経験する必要のないことが明記されています。
要約すると、ロシアのミールの土地の共同所有はヨーロッパでただ一つ見られるものだ。それは資本主義体制の中のコミュニズムであり、今後のコミュニズム革命で、大規模に組織される共同労働のモデルを完成した形で提供している、とします。

それゆえ、それはカウディナのくびき門〔資本主義〕を通ることなしに、資本主義制度によってつくりあげられた 肯定的な諸成果を 自らのなかに組み入れることができるのである。〔中略〕現在の状態のもとで正常な状態におかれたあとでは、近代社会が指向している経済制度の直接の出発点となることができ、また自殺することから始めないでも、生まれかわることができるのである。(全集第19巻408頁)

(斎藤幸平『ゼロからの《資本論》』2023年、N H K出版、194ページ)

そしてマルクスは、資本主義社会は危機的な状況にあり、その危機は資本主義制度の消滅によって終結するのだといいます。その終結はミールのようなアルカイック(原古的)な共同体がより高次の形態になり、資本主義社会がそこに復帰することによってもたらされるだろうとします。

資本主義は西欧でも、アメリカ合衆国でも、労働者大衆とも科学とも、またこの制度の生み出す生産力そのものとも闘争状態にあり、一言でいえば危機のうちにある。〔中略〕その危機は、資本主義制度の消滅によって終結し、また近代社会が、最も原古的な類型のより高次の形態である集団的な生産および領有へと復帰することによって終結するだろう。(同前393頁) (同前、195ページ)

これが、最晩年のマルクスが行き着いた、コミュニズムの理想の形だといえます。
ロシアの女性革命家ヴェラ・ザスーリチは1882年に『共産党宣言』のロシア語版を刊行します。マルクスはそのロシア語版に序文を添え、その序文を次の一節で締めくくっています。

もしロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命への合図となり、その結果両者がたがいに補いあうならば、現在のロシアの土地共有制は、共産主義的発展の出発点として役立つことができる。
   ロンドン、1882年1月21日、カール・マルクス

(マルクス、エンゲルス『共産党宣言』1951年、岩波書店、14-15ページ)

最晩年のマルクスは、ロシアのミールのような土地共有制が、コミュニズムの出発点になるのだと、明言しているのです。佐喜眞はロシアのミールと沖縄のシマは、強い自治意識を持ち、土地を共有し、その心持ちまで一致している とします。それを最晩年のマルクスの思想に当てはめると、沖縄のシマ社会は資本主義が終焉した後のモデルになる可能性を秘めているということになります。
現在の沖縄のシマ社会は過疎化とリゾート開発によって衰退の一途を辿っています。その衰退を食い止めるために、沖縄県をはじめとする行政は、観光地化に力を入れています。しかしその観光地化は、シマの生活そのものを商品化する危険性が伴います。
マルクスの最晩年の思想をシマ社会に当てはめることもできます。

シマは遅れた地域でもなく、消滅の未来が待っているという存在でもありません。沖縄だけではなく、日本、世界全体も含めて資本主義の危機を乗り越える力を秘めている社会なのです。

資本主義の洗礼を受けて、シマ社会は激動を続けてきました。しかしシマ社会の構造はまだ死に絶えたということはできません。まだ根っこが残っているのです。この根っこを蘇生させて、現代社会に適応させ、なおかつ未来社会のモデルにすることもできるのです。
それは私たちにとっての「懐かしい未来」というだけではなく、日本にとっても、世界にとっても「懐かしい未来」を提示することになるでしょう。

戦前に普天間の景勝地として知られた宜野湾街道の松並木。1932年に国の天然記念物に指定され、人々に親しまれた。

写真は1935年の宜野湾街道の松並木です。
現在は普天間基地に飲み込まれた街道で、アラグスクのシマはこの街道沿いにありました。
この風景を取り戻すことは至難の業(わざ)にも思えます。しかし、資本主義に未来がないのだとしたら、それほど手の届かない遠い未来だとは、いえないのかもしれません。

ガマから出てきた守姉たち:守姉のいる風景

哨戒中の海兵隊員が、丘のガマから出てきた民間人を収容所へ避難させている様子。沖縄本島にて。この収容所は、第6海兵師団輸送所内にある。1945年4月15日

ガマから出てきた守姉たち。右の姉は赤ん坊を負いながら妹の肩に手を差し伸べている。

左の姉も不安に顔を背けながらも、背負っている子を守ろうとしている。

このような小さな姉たちが戦場を生き抜き、戦後も霊的な姉として守子たちを守り通したのだろう。

沖縄のシマ社会を考える

 2025年1月1日

(YouTube『無縁の縁』にアップした動画の文字起こしです)
https://youtu.be/LMhEf5Rdo1w?si=sAHNExKmqfPOJsTC

沖縄におけるシマという言葉は、いわゆる アイランドの漢字で書かれる島ではなく、集落を意味するものです。

このシマで沖縄の人々は何百年も何千年も生きてきました。

《明治22年5月5日生まれ 久田マカト 百歳の肖像》(1990年、栗原滋氏撮影) 

スライドの写真は明治22年生まれの沖縄の百歳のおばあさんです。

穏やかな微笑みを浮かべています。

この穏やかな微笑みは、モナリザの微笑のように、解けない謎を秘めているような気がします。

その謎を解くために、さまざまな角度からシマ社会を考えてみたいと思います。

生存経済的には極めて豊かであった沖縄のシマ社会

沖縄のシマ社会は生存経済的にはとても豊かな社会でした。

衣食住に関しては、貨幣経済的な貧困というものがほとんど存在しない社会だったのです。

写真は1960年代の沖縄島北部にある国頭村奥の集落です。

《国頭村奥の集落。写真中央部に広がる水田は、1969(昭和44)年10月の集中豪雨で奥川が氾濫したことから使用不能となり、以後、稲作は途絶えた。》

写真の茶褐色の部分は集落の家屋です。

集落の背後には広大な水田があります。
右手の山の斜面は、頂上近くまで段々畑になっています。

写真の説明では1969年の水害で水田が使用不能になり稲作が途絶えたとあります。

1960年代は、国頭村奥だけではなく、沖縄中で水田が消滅し水田が砂糖キビ畑に変わった時期に当たります。

1950年代の沖縄の水田風景

水田が衰退する以前の沖縄のシマ社会は、自給率の極めて高い社会でした。

2枚の写真は1950年代の沖縄の水田の風景です。

《広がる田んぼには青々とした稲と後ろの山並には段々畑》(1952年-1954年の沖縄県 琉米歴史研究会)

《1950年代の沖縄の棚田。》(1950's Blackie-San Okinawa)

この風景は沖縄では普通に見られるものでした。

水田から収穫されるお米は商品化されることは少なく、多くが自給用でした。

段々畑にはサツマイモが植えられています。

サツマイモもお米と同じように、ほとんどが自給用でした。

シマ社会は自給自足の割合が高い社会でした。
分かち合い・助け合いをモラルとする社会だったのです。

そのため貨幣経済的な尺度で測られるような貧困というものがほとんど存在しない社会だったのです。

分かち合い・助け合いのモラルが徹底したシマ社会

例えば、沖縄島北部の今帰仁村の古宇利島は現在はリゾート施設が立ち並んでいますが、玉城英彦氏の『恋島(フイジマ)への手紙:古宇利島の思い出を辿って』によると

島の人たちは貧しかったが、飢え死にする人は一人もいなかった。またホームレスもいなかった。お腹が空けば、どこかの家に寄って朝食に、昼食に、あるいは夕食にありつけばよい。一ヶ月ぐらいなら、誰もこの生活に文句を言わない。

とのことです。
それくらい分かち合い・助け合いのモラルが徹底していたのです。

先に述べた百歳のおばあさんの穏やかな微笑みの謎に迫るために、さまざまな視点から
シマ社会の構造と社会変動を探ってみたいと思います。

守姉のいる風景

座間味港にて・船の入港で港に集る子供 1959年(金城 棟永)

少女たちは弟や妹の世話をしながら一緒に遊ぶ。なかに一人、赤ん坊を背負っている少女もいる。その赤ん坊が少女の弟妹とは限らない。日本復帰(1972年)以前の沖縄には、守姉(もりあね)といって、弟妹以外の赤ん坊を子守りする風習があった。それは児童労働としての子守ではなかった。赤ん坊を霊的に守護したのだ。

守姉と守子の関係は生涯にわたった。守子にとって守姉は、実の兄弟を超えた大切な存在だった。

そのような霊的な姉を持つ人は多かった。戦時中でも戦後でも、激動する社会の中で沖縄の人々が逞しく生き抜くことができたのは、親子というタテの関係、兄弟というヨコの関係とは異なる、守姉というナナメに関係する家族を持てたことも、大きかったのではないだろうか。