rapanse’s diary

今日の沖縄戦を写真でたどる

1945年4月18日の沖縄戦

105ミリ砲で掩護する砲兵隊(1945年4月18日撮影)写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

本部半島の嘉津宇岳がこの位置に見えるのは、撮影場所はおそらく名護だろう。現在ボクたちが住んでいるあたりになる。

攻略した丘--谷へと進軍する第4海兵連隊。(1945年4月18日撮影) 写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

おそらく本部町のあたりだろうと思われる。徹底した砲撃で山肌は森林が失われ、剥き出しの状態になっている。山間に水田が拓かれているのがわかる。沖縄の民俗行事はそのほとんどが稲作儀礼に端を発する。現在の沖縄で水田は身近な存在とはいえないが、かつての沖縄では水田は生活と密接に結びついていたのだ。

日本軍が撤退した壕で重要文書を発見したD-3収集班の将校。ここはかつて本部半島の日本軍司令部であった。写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

日本軍は米軍に情報が漏れるのを恐れて、協力的だった沖縄の人々をスパイ容疑で次々と虐殺していった。しかし肝心の自分たちは、撤退のさいに重要文書をそのまま残していた。米軍は多くの日本軍文書を押収し、捕虜や民間人の尋問などと合わせて国頭支隊(宇土隊)の構成を把握した。宇土隊は信じられないほど残虐で、なおかつ杜撰な軍隊だった。

海兵隊員に会うアーニー・パイル。沖縄に向かう攻撃輸送艦チャールズ・キャロル(APA-28)にて。(1945年3月30日) 写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

国史上最も有名な従軍記者の一人で、無名兵士たちの友人、そして代弁者として世界中にその名を知られたアーニー・パイルは、伊江島で戦死した。4月18日のことで、彼はその日の朝、連隊長のJ・クーリージ中佐とジープに乗って前線へ向かう途中だった。右前方の草むらから日本軍の機関銃がひをふき、それっきりであった。…彼はなんら武器も持たず、一本の鉛筆とタイプライターを下げて戦場に出た。…41歳にもなったアーニー・パイルは、もう従軍するには年をとりすぎている、として2、3日後には故国へ帰る予定だった。
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 108頁より》

沖縄の少年とその弟(1945年4月18日撮影) 写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

どこの収容所なのかは不明。少年のあどけない表情が印象的だ。