子守りしながら洗濯する少女たち——1945年4月29日の沖縄戦
金武大川(きんうっかがー)で洗濯する少女たち。姉は赤ん坊を背負い、足で洗濯をしている。妹は汚れた洗濯物を抱えている。
共同井戸は女性たちのコモンズであったようだ。二人の少女もその一員に加わっている。コモンズがあるかぎり、なんとか生き延びていくことはできたのだろう。
赤ん坊を育てるのは母親だけの役割ではなかった。母親が自由に働けるように、少女たちが乳飲み子を子守りしたのだ。乳飲み子は弟妹とは限らなかった。頼まれてする子守も多かった。
頼まれてする子守りでは、守子と守姉の関係は生涯にわたって続くものだった。守子は実の姉かそれ以上の大切な存在として守姉をリスペクトした。
4月29日は天長節(昭和天皇誕生日)で、浦添村前田高地では米軍にニードル(縫い針)・ロックと呼ばれた為朝岩の周辺をめぐって激しい攻防戦が行われた。
前田高地は絶壁の高地が連なっており、戦車が使えなかった。そのため血みどろの地上戦が繰り広げられ、米兵によると、「ありったけの地獄を一つにまとめた」ような戦場だった。
五日間の攻防で前田高地を確保した米軍は、1キロ半ほどしか離れていない首里に直撃弾を浴びせることができるようになった。
米軍のプロパガンダに協力し、住民を救おうとした二人
激戦地の浦添村で日本軍捕虜と沖縄女性の間のアメリカ式結婚式が行われた。男性は日本軍中尉で、英語をある程度話することができ、英語を読むことはそれ以上にできた。女性 (17歳) は村役場の職員で、従軍看護師として部隊に従軍していた。
日本文学研究者のドナルド・キーン氏は、沖縄戦の際には米軍の通訳兵として1945年4月1日、読谷村から上陸し、捕虜の尋問や日本兵へ投降を呼び掛ける役割を担った。尋問に関わっていたドナルド・キーン中尉によれば、この撮影は住民への投降呼びかけのため米軍が仕組んだプロパガンダであったという。
語学将校ドナルド・キーン中尉が友人にあてた手紙
「… こっちは泥まみれで戦っているのに、あの2人は結婚だと。結構なことだな。」その横でカメラマンが2人の日本人を取り囲む。「はい、笑って。そうそう、笑顔で。キスしてくださいよ、彼女に...おや、新郎はどうかしたのかな?怖気づいたのかな?」 新聞記者が悪態をつく傍ら、カメラマンたちはあらゆる角度から写真を撮り続けた。こんな状況じゃ、結婚式を報じた記事が救い難いほどデタラメになるのも不思議はないだろう?いつものことだが、記者たちはお互いの話に夢中になりながら、こんな結婚式は『おまけ』みたいなものだと言い張っている。ぼくに言わせばこうだ。つまり、自分が実際に見聞きした出来事について新聞記事を見てみると、いつも話がねじ曲げられたり、誤っていたりした。すなわちキムラ氏の結婚式をアメリカ人の途方もない気前よさの表れと報じれば、まさにそう思い込んでいる世間の思惑に合致するのだ。アメリカ人が世界を守る偉大な救世主だなんて、記者たちがでっちあげたデタラメに過ぎないのに。
《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 2015年 124-125頁》
米軍の調書によると、二人が米軍の仕組んだプロパガンダに協力したのは、日本軍によってひどい状態に追い詰められている沖縄人を助けたいという思いからであったとされる。
彼女の証言によると、「(西原村の)民間人は、作業部隊として徴兵されたのではなく、斬り込み隊として動員されたという。これらの人々は、米軍が村に侵入すれば、斬り込みすることになっていた」。
西原村からの防衛隊は200人が配属され、さらに近隣の宜野湾村から防衛召集者270人を加えると500人余が、西原村一帯に配置されている。彼等は作業部隊ではなく、文字通り必死の「斬り込み隊」であったという。
浦添村では4,112人の戦死者(戦死率44.6%)を出し、一家全滅は469戸にのぼった(一家全全滅率22.6%)。
二人は切り込み隊や強制集団死(集団自決)を選ぶのではなく、生き延びることを村民たちにアピールしたかったのだと思われる。
この写真は沖縄県公文書館の写真を渡邉英徳氏が彩色加工したもの。
米軍の手先となる自衛隊の姿:先取りする子どもたち
米兵がブートキャンプ (新兵訓練所) で受けるような軍事訓練は、日本では「国民学校」から行われていた。
昭和16年4月、『小学校』は『国民学校』というよびかたに変わりました。特に男の子は、「大人になったら兵隊さんになる」こと、国のために働くことなどの軍国教育が行われていました。
総務省|一般戦災死没者の追悼|りっぱな兵隊さんになるために「国民学校」
写真は日本の戦後を象徴する。
「国民学校」で軍国教育を受けた子どもたちを、軍事訓練する米兵。はからずも米軍の手先として編成された自衛隊の姿を先取りすることになってしまった。
下流化した日本の若者たちは、経済的徴兵によって自衛隊に入隊し、アフリカやアジアなどの紛争地帯に派遣されることになるだろう。米軍の消耗を防ぐ盾として。
共同井戸はコモンズであった——1945年4月26日の沖縄戦
写真は金武大川(ウッカー)だ。
カー(井泉)は村落生活の中心をなすとともに祭祀の中心をなす点でもあった。
沖縄の宗教のおおもとをなすものは火と水で、家の竃(かまど)には〈火の神〉を祀り、井戸や泉には石の〈ウコール〉(香炉)を据えて〈カーの神(水神)〉を祀った。
カーは禊ぎをするところで、シマの神女(カミンチュ)や一家を守る女性たちはカーの水で禊ぎをすることで霊力を得、シマ・コミュニティや家族の生命力の再生をはかった。
沖縄のシマ社会には制度化された宗教は見当たらないが、女性たちが火の神と水の神を祀ることで、宇宙論的な秩序が保たれていた。
戦火を生き延びた女性たちは、カーでの作業で命が蘇るのを感じのだろう。
米兵たちは共同井戸の利用を面白がって記している、「水路へ取水された水はまず飲料水として用いられ、次に野菜洗い用、水浴び用、最後が洗濯用」と。戦火にあっても自暴自棄になることがなく、秩序だって共同井戸が利用されていることに、目を見張っているのかもしれない。
共同井戸は生活の重要な場であるとともに、信仰の場でもあったのだ。そこには戦火にもかかわらずシマ社会を貫くモラルが生きていた。それはどのような状況であろうとも、コモンズ(共有地)の管理を揺るがせにしないという不文律であったのだ。
国家に従順な身体ではなかった久高島の神人
規律・訓練を通して権力に従順な身体ができあがる。近代の学校教育は号令一つで並ぶ身体を創り出す。そのような訓練の成果として、国家のために死ぬことのできる国民が創り出される。
その一方で国家に従順ではなく疑問を投げかけることのできる身体がある。久高島の神人(かみんちゅ)だ。
男性が兵隊にとられ女性がほとんどになっていたこの島の住民を、日本軍は屋嘉部落 (金武町) に強制疎開させた。
ところが日本軍は住民の食糧をあさるようになった。
久高島の神人は兵隊に向かって、「これでは日本は負けるね」といい、「負けたら私らはさっさと手をあげて降参するさ」といった。
多くの住民はこのように言い返すことができずに、強制集団死(集団自決)に追い込まれた。神人は最後のギリギリで、国家に従順な身体であることから免れることができたのだ。
軍はしまいには配給どころか、兵隊が私らのところに物もらいにくるようになってきましたから、私は、「この戦争はもう勝つはずはないさ。こっちはあんな遠い遠い東の島から子供たちをひきつれてきたのにね。あんたたちまでこっちの食い物を乞うて食べたら、私たちは誰が守ってくるね、兵隊さん」こういってやりましたよ。
私らも日本が勝つようにと東にも西にも手を合わせて拝みをしてきましたが、兵隊が住民の食糧をあさるようではもう誰の味方かわからない。「これでは日本は負けるね」と言ったら、兵隊は「日本が負けたらどうなるか」というから「負けたら私らはさっさと手をあげて降参するさ」と答えると、兵隊はこわい顔をして「誰が教えたか」ときくから、「誰がも教えない。おばさんはちゃんとわかっているさ。神さまが教えてくれるさ」と言ってやりましたよ。私は久高の神人ですからね。
看護師にされ戦闘員にもされた従軍慰安婦——1945年4月24日の沖縄戦
1945年4月23日から24日にかけて、浦添〜西原で米軍と日本軍の激しい戦闘が行われた。
住民は戦闘に巻き込まれ、激戦地となった南部戦線に匹敵するほどの犠牲者を出した。
写真の少女たちは激戦地で発見されたようだ。地獄を見たのだろう。二人とも表情を失っている。
沖縄県史に反映された最近の調査データによれば、浦添村の戦没者数は4,679人であり、中部市町村中で第3位だが、犠牲者の人口比では41.2%であり、西原村の48.2%(戦没者数5,026人)に次いで2番目に多い。これは首里市(42.1%)、南風原町(45.1%)、豊見城村(40.6%)、高嶺村(43.4%)など南部地区の市町村に匹敵する死亡率である。(「総務省:浦添市における戦災の状況」より)
公文書館の和訳では「女性の看護要員」となっているが、原文では「 Geisha girl nurse 」となっている。Geisha girl というのは従軍慰安婦のことだ。この写真では、慰安婦は戦闘の中を生き延びて、収容所で看護の仕事に従事していたことがわかる。
日本軍はわかっているだけでも140カ所の慰安所を沖縄に設けていた。伊江島には2カ所あった。日本軍は慰安婦に性の相手だけではなく、負傷兵の看護の役も与えた。それだけではなく戦闘時には戦闘員としても役割も強要された。
1944(昭和19)年8月2日「陣中日誌」には、10時から12時まで「特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」という記録が残っている。救急法の教育まで受けた慰安婦たちも戦闘に巻き込まれ、全員戦死した可能性が高い。
伊江島における慰安所の特徴は第一に、第32軍創設以降飛行場建設のために上陸した部隊が設置したという点、第二に、慰安所建設を急いだ理由が、兵士たちのストレス解消のためであると同時に、労働力として動員された住民と軍隊との「協力関係」を円満にするという目的もあったという点、第三に、慰安婦に戦闘参加の教育が行われ、軍隊に「性」の「慰安」を提供する以外に、戦闘員としての「動員」も準備されていた点である。
《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 185頁より》
名護市史では「全員戦死した可能性が高い」とされているが、米軍の捕虜となった後も、野戦病院、養老院、孤児院などで働いていたことわかる。