rapanse’s diary

今日の沖縄戦を写真でたどる

1945年5月1日の沖縄戦:死を待ち望む表情だろうか。

海兵隊 Apparently more concerned over the prospects of bad weather than a rain of Jap bombs is this venerable native of Okinawa. 日本軍の爆弾よりも悪天候を気遣っている民間人。 撮影日: 1945年 5月 1日

おそらく老人は死を待っていたのだろう。次に記された男性のように、子どもを亡くし、母や妻を葬ったのかもしれない。死を待ち望む人間には、爆撃は何の恐怖の対象にもならないのだ。

独立高射砲第27大隊、通信班・陸軍二等兵の回想:
この司令部壕はかなり急な坂道の上にあったが、見下ろすと小径のほとりに仏桑華の花がいまを盛りと咲きほこっていた。…花陰の中に初老の男がひとり膝をかかえてうずくまっていた。何をしているのか気になり、「そんなところにいたら危ないですよ」と声をかけた。すると男は顔を上げ、「もういつ死んでもいいんです」と物憂げに答えた。「どうしたんです」
「はい、長男も死んだし、母もゆうべ死んでしまいましたから」そういうと、男はぽつりぽつりと話し出した。
「長男は師範学校の4年生でしたが、軍の伝令に召集されて首里で戦死したのです。母は家族が北部へ避難しようというのを聞かず、どこにいても死ぬときは死ぬ。おなじ死ぬならご先祖さまの亡くなったこの家で死にたいといって動こうとしないのです。しかたがないので私だけが残って面倒をみていたのですが、そのうち少しあった食べものもなくなりました。困ったことになったと思いましたが、わしはもうこの歳だから何もいらないと水ばかり飲んで、昨夜とうとう死んでしまったのです。88歳でした。私は母の遺言どおり行李にしまってあった一番いい着物を着せ、背中に負って先祖の墓へ運んで行こうとしたのですが、骨と皮になっているはずの母がどうしたことか、重くて、重くてとうとう途中で歩けなくなってしまったのです。それで引き返して母を戸板にくくりつけ、縄でお墓まで引っぱって行ったのですよ」
男は、それから漆喰で固めた墓の石蓋をあけて寝棺に母の遺骸を納め、あとは漆喰の替わりに畑の土を練って目張りをし、ようやく、わが家に帰って来たというのである。
「どうして母があんなに重たかったのかと不思議でしたが、自分の足を見てやっと気がつきました。脚気にかかっていたんです」
そういって男は両脚を出して見せた。なんと二本の脚は丸太棒のように膨れあがり、とても人間の脚には見えなかった。男は花の下で静かに死を待っていたのである。私はことばに窮し、ただうなずいて立ち去るほかなかった。
《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 85-87頁より》