1945年4月15日の沖縄戦
78年前の今日。
名護のどこだろう。校舎らしきものが見える。羽地小学校だろうか。建物の裏に水田が広がっている。1950年代までの沖縄は水田の広がる光景がいたるところにあった。
父の同級生は三中健児隊に志願し、戦死した。一人息子だった。父はボクたち家族を連れて、毎年戦死した友人の母親を訪ねた。家は名護からは遠い国頭村辺野喜にあった。ボクたちは辺野喜のおばーと呼んでいた。辺野喜のおばーは父の訪問を息子のように喜んだ。
腕のハジチ(針付き)の模様が美しい。
1960年代までの沖縄では10歳前後の少女が乳飲み子を子守りするのは一般的な慣習だった。それは賃労働ではなく、自分の家族だけではなく、近所の子を頼まれてする子守りであることも多かった。