rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ホルバイン――《大使たち》

ホルバインが1533年に制作した《大使たち》では、二人の男性の足下に浮遊する奇妙な物体が描かれている。それは「アナモルフォーズ(歪像画)」の技法によって描かれた髑髏(どくろ)だ。

髑髏は、ヴァニタス(虚栄)を表わす寓意だ。ヴァニタスという言葉は、現世の財産や知識は全て虚しいものであり、時は全てを奪い、死には現世のどんなものも逆らえない、ということを意味している。

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ハンス・ホルバイン作《大使たち》(1533年)ナショナルギャラリー(ロンドン)

二人の男性の足下に浮遊する奇妙な物体を、斜め左下から見ると、このように見えるという。

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同じような主題を扱った木版画集《死の舞踏》(1524-26)では、死は人間たちの世界に遠慮なく介入し、ある意味では人間たちと同じ次元の水準にいた。《大使たち》では《死の舞踏》のような強権的な介入はない。左下から眺めないと、その奇妙な物体は姿を現さないのである。

次の絵はホルバインによる《死の舞踏》シリーズの一枚だ。「死」は王冠を付けた女王に墓穴を指し示す。死が間近に迫っているので、死に向かう準備をせよと促しているのだ。強権的ではあるが、ある意味では親切でもある。《大使たち》における髑髏は、このような「死」とは異なる。

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フランスの精神分析ジャック・ラカン(1901-1981)によると、この奇妙な物体は、絵を鑑賞し終えてから振り返ったときに、視ることのできるものだという。

先回「虚栄vanitas」との共鳴や繋がりを指摘したこの絵、着飾り凍りついたように立ちつくす二人の人物の間に、当時の見方からすれば、技芸と科学の虚栄を思い出させるあらゆる物を配したこの魅惑的な絵、この絵の秘密が示されるのは、この絵から少し離れてもう一度振り返ったときだからです。そのとき、この浮かんでいる不思議な対象が何を意味しているかが解ります。この対象は髑髏という形で我われ自身の無を映し出すのです。
ジャック・ラカン(小出浩之他訳)『精神分析の四基本概念』

振り返らないと死は出現しない。死はもはや人間たちと同じ次元の世界には出現しない。宗教改革が過激化するなかで、ナイーブに死のもつ力を信じる時代は、過ぎようとしていたのだ。

人間たちは相変わらず死から逃れることはできなかった。メメントモリ(死を想え)のように、人間の無常観から天国に至る道を準備するという死への向かい方ができなくなったのだ。人間たちは死と同居することはできなくなっていた。それは現代社会でも変わりはない。人々は不死であるかのように生きている。死に向き合うすべを失っているのだ。

ラカンは、この絵の放つメッセージを二つ述べる。一つは去勢であり、もう一つは出会い損ねだ。

精神分析において去勢は、人間から万能感を取り去ることを意味する。万能感をもっているあいだの人は乳幼児と同じで、まだ社会的存在としての「人間」にはなっていない。万能感を去勢されることによって、人は社会性を獲得し、「人間」になるのである。

ラカンによると髑髏は、像によって実体化された「去勢」を意味するものだった。

主体というものが輪郭を取りはじめ、実測光学が探求されるまさにその時代のさなかに、ホルバインはあるものを我われに見えるようにした……。それは無化されたものとしての主体にほかなりません。無化されたと言いましたが、正確に言うとここでは、去勢……を像によって実体化するという形での無化です。
ジャック・ラカン(小出浩之他訳)『精神分析の四基本概念』

ラカンの解釈は、それだけにとどまるものではなかった。視る者と見られる者という「目と眼差しの弁証法」を、この絵にみるのである。

ラカンによると、「私」を視る眼差しが「あらかじめすでに存在している」のだという。それなのに「私」は一点しか見ることができない。そこに「私の目」と「私を視る眼差し」との出会い損ねが生じる。

眼差しはあらかじめすでに存在しているということです。つまり、私は一点だけから見ているのに、私は私の存在においてあらゆる点から見られているのです。(同前)

《大使たち》で髑髏は、鑑賞者の視点を惹きつける一点になる。しかしその髑髏を見つめたところで、あらかじめ存在する眼差しと一致することはできない。髑髏はルアー(疑似針)の役割しか果たさないのである。目と眼差しは、必然的に出会い損ねることになる。

最初から我われは、目と眼差しの弁証法にはいかなる一致もなく、本質的にルアーしかないということに気づいていました。愛において、私が眼差しを要求するとき本質的に満たされずつねに欠如しているもの、それは「あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない」、ということです。
逆に言えば、「私が視ているものは、決して私が見ようとしているものではない」ということです。(同前)

「愛」を「神」に置き換えてみる。そうすると、ルアーである髑髏をいくら見つめたところで、神が視えるわけではないということをラカンは述べていることになる。そして、「神(=あらかじめすでに存在する眼差し)」は決して、髑髏を見つめる「私」を視ないだろうということになる。

《大使たち》における髑髏は、《死の舞踏》における「死」と異なり、人間たちに無関心であり、無関係なものとして存在する。死は遠いもの、掴みがたいものとなり、人間たちはそれだけ、より深く去勢されなければならないものとなったのである。

(続く)