rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ホルバイン――《商人ゲオルク・ギーゼの肖像》

ホルバインは多数の肖像画を描いているので、肖像画家だと理解されることが多い。しかし初期の作品には、《墓の中の死せるキリスト》(1521)、版画集《死の舞踏》(1524-25)、《キリストの受難の祭壇画》(1524-25)などの宗教的テーマの絵もいくつか見られる。

《キリストの受難の祭壇画》は次のようなものだ。

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ハンス・ホルバイン作《キリストの受難の祭壇画》(1524-25年)バーゼル市立美術館 (スイス)

ホルバインは、宗教的なテーマを描かなかったのではない。そうではなく、宗教的なテーマを描いた作品は、聖像破壊運動でそのほとんどが破壊された可能性があるのだ。

幸か不幸かホルバインの作品には、数多くの肖像画が残ることになった。その膨大な肖像画の中から、3点を選んでみた。はじめの2点は歴史的にも著名な人物たちだ。エラスムス(1466-1536)とトマス・モア(1478-1535)である。

この2点は、《画家の家族の肖像》(1528-29)が描かれる前の作品だ。《画家の家族の肖像》以降、ホルバインの肖像画に変化が現れる。歴史に名を残すような著名な人間を描くのではなく、世俗的な仕事をしている生活者の表情を描くようになるのだ。

それが3点目のドイツ商人ゲオルク・ギーゼの肖像だ。このような生活者の肖像は、晩年のホルバインには見られなくなるが、ホルバイン中期の到達点を示すものだといえるだろう。

肖像画の1点目は、1523年にホルバインが描いたエラスムスの肖像だ。

エラスムスネーデルラント出身の人文主義者でカトリックの司祭だった。1511年に刊行された『痴愚神礼讃』はベスト・セラーになり、ルターに大きな影響を与えたとされる。

ルターが自分を尊敬し、自分の著作に影響されていたことを知ったエラスムスは当初、ルターとその「聖書中心主義」思想に対して好意的な態度をとっていた。しかし、エラスムスは教会の分裂を望んではいなかった。そのためルターとたもとを分かつことになった。

エラスムスプロテスタント運動を避けて、1521年にバーゼル(スイス)に移住した。その当時のバーゼルカトリックの都市だったのである。エラスムスの移住は、バーゼルで画家として活動し始めていたホルバインの、20代前半のことだった。

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ハンス・ホルバイン作《エラスムスの肖像》(1523年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)

1526年、ホルバインはエラスムスの紹介で、トマス・モアを頼ってロンドンへ渡った。

トマス・モアはイングランドの思想家で、キリスト教の殉教者としてカトリック教会と聖公会で「聖人」となっている。政治・社会を風刺した『ユートピア』(1516年)の著述で知られている。

次の絵は、イギリスに渡った翌年に、ホルバインが描いたトマス・モアの肖像だ。

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ハンス・ホルバイン作《トマス・モアの肖像》(1527年)フリック・コレクション(ニューヨーク)

ホルバインは20代で、当時のヨーロッパを代表する知識人である二人と出会っている。このような出会いが可能であったのは、中世以来のヨーロッパでは、知識人にとってラテン語が共通の言語であったからだ。

エラスムスの『痴愚神礼讃』もトマス・モアの『ユートピア』も、ラテン語で記されていた。そのような共通言語を持っていたので、国や民族の違いは、親交を深めるさいの大きな障壁にならなかったのだ。

ホルバインがラテン語に堪能であったのかはわからないが、トマス・モアは、親友であるエラスムスから、ホルバインのパトロネージュ(支援)を依頼されていた。そのためホルバインは、イングランドに拠点を移すことができたのである。

当時のイングランドにはドイツの商人も大勢移住していた。ホルバインの肖像画で印象深い次の肖像画は、イングランドで活動するドイツ商人の肖像だ。

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ハンス・ホルバイン作《商人ゲオルク・ギーゼの肖像》(1532年)ベルリン美術館

ホルバインが二度目にイングランドに渡ったときの作品だ。前の2作と比べるとわかるが、宗教的な作品でもなく、歴史上著名な人物の肖像でもない。作品を語るための大きな物語は、外されているのだ。それでもこの作品は、宇宙論的な確固とした人間存在を描いているのだ。雄弁にではなく、無言の内にだ。

《画家の家族の肖像》(1528-29)では、悲しげで不安そうな人間存在が描かれていた。《商人ゲオルク・ギーゼの肖像》(1532年)では、そのような不安は乗り越えられている。聖像破壊運動による恐怖を乗り越えて、宗教改革とは異なる視点で、ホルバインは人間存在を描こうとしたのだ。

カトリックなのかプロテスタントなのかという問題は、この作品においては、乗り越えられている。どこでホルバインは、そのような現世的な争いを乗り越えることができたのだろうか。

それは《大使たち》(1533年)に描かれた髑髏によって、明らかになるだろう。

(続く)