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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ホルバイン――《バーゼル市長ヤーコプ・マイアーの聖母》

ハンス・ホルバインは南ドイツのアウクスブルクで生まれ、修業時代に各地を遍歴し、1515年(17歳)頃からバーゼルルツェルン(ともにスイス)で画家として活躍していた。

ホルバインは、1526年からロンドンに移り住む。バーゼル時代の最晩年の作品として、《バーゼル市長ヤーコプ・マイアーの聖母》を制作する。

この絵は、死後の魂の救済を願う宗教画であるとともに、「家族の肖像画」の先駆をなすものでもあった。

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ハンス・ホルバイン作《バーゼル市長ヤーコプ・マイアーの聖母》(1526年)ダルムシュタット城美術館

聖母マリアの足下には、バーゼル市長ヤーコプ・マイアーの「家族」が描かれている。この「家族」は、現在のぼくたちがイメージする家族像とは、異なっていた。フランスの歴史家フィリップ・アリエス(1914-1984)によると、この「家族」には三人の死者が含まれていたのである。

絵の中の六人のうち三人は1526年にはすでに死亡していたことが知られている。それは最初の妻ヤコブ・マイヤーと彼女の二人の息子であり、一人は十歳で死去、もう一人はもっと若いうちに亡くなったのだが、この最後の者は裸体である。
フィリップ・アリエス(杉山光信他訳)『〈子供〉の誕生』

最初の妻ヤコブ・マイヤーは、右側の頭巾で顔を覆った女性であり、彼女の二人の息子は、左側のヤーコプ・マイアーの足下に描かれている。

「死んだ子供の肖像画が十六世紀に出現したこと」は、「感性の歴史の中では非常に重要な一時期を画している」のだとアリエスは言う。

人口学的にみて生命の浪費されたこの時期に、生き残るにせよ死んでしまったにせよ、子供の外観を思い出に残そうとする願望が感知されていたというのは、きわめて注目に値することである。特に死んだ子供の肖像画は、もはや一般的にも子供が避けがたい消耗品として考えられてはいないことを示している。……死んだ子供の肖像画が十六世紀に出現したことは、したがって感性の歴史の中では非常に重要な一時期を画しているのである。(同前)

死んだ子供をしのぶということは、感性の大きな変化を意味することだった。幼児死亡率が高かったため、小さな子供は、「数に入っていなかった」のである。

アリエスは、フランスの人文主義モンテーニュの乳幼児への無関心さについて言及する。

小さな子供は死去する可能性があるゆえに数のうちには入っていなかったのである。「私はまだ乳呑み児であった子供を二、三人亡くした。痛恨の思いがなかったわけではないが、不満は感じなかった」と、モンテーニュは述懐している。(同前)

亡くした子供の数が「二、三人」というアバウトな表現であるところに、モンテーニュの乳幼児への無関心さがあらわれている。

 ここで留意しなければならないのは、モンテーニュの時代を経てホルバインの絵があるのではなく、ホルバインの絵の制作から60年前後経過して、モンテーニュの『エセー』が発行されるということである。

モンテーニュの時代との前後を取り違えてしまいそうになるほどに、ホルバインの絵は、その感性が新しかったのである。

(続く)