rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

クラナハ――宗教改革とエロスの両立(後)

クラナハは1509年(37歳)あたりからエロチックな女性の裸体像を描き始める。クラナハの裸体像は、ルターによる宗教改革(1517年)、ドイツ農民戦争(1524-25年)の時代にも描き続けられ、1530年代にクラナハ特有の裸体像のスタイルが完成する。

次の絵は、《パリスの審判》だ。女性たちは、官能的な裸体として描かれている。

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ルーカス・クラナハ作《パリスの審判》(1530年)カールスルーエ国立美術館

この絵には奇妙な点がある。アトリビュート(西洋美術において伝説上・歴史上の人物または神話上 の神と関連付けられた持ち物)が、さほどていねいには描かれていないのである。そのため三人の女神たちの名前を特定するのがむつかしい。

パリスとヘルメスが鎧姿なのも奇妙である。パリスはトロイアの王子であるが、審判に選ばれた頃は羊飼いだった。ヘルメスは神々の伝令使であるが、それを表わすのは、はだしの足だけである。

この絵は《パリスの審判》というよりも、固い鎧で武装した男性たちと柔らかい肉体の女性たちとが並列に描かれた絵になっている。女性たちは完全な裸婦ということではなく、首のまわりを装身具で飾り、腰を透ける布で覆っている。そのことによって、通常の裸婦像よりも官能的なものになっている。

次の《ヴィーナス》も同じ手法が使われている。

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ルーカス・クラナハ作《ヴィーナス》(1532年)フランクフルト、シュテーデル美術館

高価そうな髪飾り、首飾りから、この女性が高貴な身分の女性であることがわかる。そのような女性が、透ける布で腰を隠すことによって、官能的なものになる。

次の絵はクラナハによる《アダムとイヴ》だ。この絵のイヴは、髪飾りや首飾りなどの装身具はなく、透明な布もまとっていない。しかしこの絵によって、クラナハの描く女性たちがなぜ官能的なのかがわかってくる。

それは徹底した男性優位である。アダム(男性)は恥じらいを持つ文化的な存在であり、イヴ(女性)は自然的な存在であり、恥じらいという感覚を持つことがない。罪を人間世界にもたらせた「罪の女」という存在として描かれている。

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ルーカス・クラナハ作《アダムとイヴ》(1531年)ベルリン国立美術館

イヴの背後には悪魔の化身としての蛇がいる。イヴは禁断の木の実を両手に持ち、右手に持った木の実をアダムに食べさせようとする。アダムは困惑したような表情を見せるだけだ。そしてアダムの右手は木の枝を持ち、木の枝で自分の腰を隠すとともに、イブの腰も隠している。

イヴの足元にはライオンが潜み、アダムの足元には鹿がしゃがんでいる。

つまり、女性の特性は、悪魔、野蛮な獣性、性的な無節制として表わされ、男性の特性は、罪に対する思慮、鹿のような穏やかさ、性的なものに対する恥じらいとして表現されている。

宗教改革の時代に、このような男性優位が確立され、クラナハは官能的な女性美を描くことができた。

クラナハはルターと親交が深かった。家族ぐるみの付き合いであったという。クラナハの描く官能的な女性たちは、ルターの宗教改革に反するものではなかった。

宗教改革の時代に、男女のジェンダー対称性は著しく均衡を欠くものに変化したといえるだろう。