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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

騎士道と北方ルネッサンスの中心地だったブルゴーニュ公国

ブルゴーニュ公国 北方ルネッサンス 騎士道

中世ヨーロッパには、ブルゴーニュ公国という不思議な国家があった。ヨーロッパを理解するためには、このブルゴーニュ公国という国家を理解しなければならない。なぜなら、このブルゴーニュ公国で騎士道文化は栄え、ブルゴーニュ公国の支配地としてネーデルラント(現代のオランダ、ベルギールクセンブルク)という地域が形成されたからである。

ネーデルラントにはフランドルも含まれる。このフランドルで北方ルネッサンスは花開くのである。

つまりブルゴーニュ公国は、中世騎士道文化の中心地であり、北方ルネッサンスの中心地でもあったのだ。中世騎士道と北方ルネッサンスは、近代ヨーロッパを形成する土台となる。

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ブルゴーニュ公国が国家と等しいほどの力を持つようになったのは、フィリップ豪胆公 (1342年 - 1404年、在位:1363年 - 1404年)の時代からだった。騎士道の盛んだったブルゴーニュ公国では、王にはあだ名がつけられた。豪胆公というのはあだ名だ。フィリップ豪胆公は、1384年にフランドル女伯マルグリットと結婚し、フランドル伯領をも支配した。そのためヨーロッパで最も裕福な領土を有する大貴族となったのである。

フィリップ善良公(1396年 - 1467年、在位:1419年 - 1467年)の時代に、ブルゴーニュ公国は全盛を迎える。

下の絵は、北方ルネッサンスの巨匠のひとりであるロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1400-1464)によるフィリップ善良公の肖像画である。

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ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作《フィリップ善良公》1450年

善良さを表わすやさしげな表情は、肖像画の最高水準を示すものだと言ってもよいだろう。

この絵の描かれた1450年当時、イタリアでは、後に《春》や《ヴィーナスの誕生》を描くことになるサンドロ・ボッティチェッリ(1445-1510)はまだ幼児であり、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1514)はまだ生まれていなかった。

フィリップ善良公の即位とともに、公国の宮廷はディジョン(現フランス国内)から、ブリュッセル(現ベルギーの首都)に移った。フランドル地方がブルゴーニュ公国の中心地となるのである。

フィリップ善良公は金羊毛騎士団を創設(1430年)し、騎士道文化が最盛期を迎えた。ファン・エイク兄弟などのフランドル派絵画はヨーロッパで最高水準のものとなった。騎士道と北方ルネサンスが同時に花開いたのである。

下の絵はファン・エイク兄弟による《ヘントの祭壇画》である。複雑な構成で描かれた非常に大規模な多翼祭壇画である。絵の一枚一枚が細密に描かれており、現実の人間としてリアルに描かれている。

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ファン・エイク兄弟作《ヘントの祭壇画》350.5×460cm (1432年)シント・バーフ大聖堂所蔵(ヘント)

ファン・エイクは生前から北ヨーロッパ中で絵画に革命を巻き起こした巨匠と見なされていた。ファン・エイクの絵画構成と手法は幾度となく模倣されたもので、北方ルネッサンス絵画の手本であった。《ヘントの祭壇画》はそのファン・エイク兄弟の最高傑作といえるものであった。

イングランドとフランスはフランス王国の王位継承権をめぐって、百年戦争(1337-1443)と呼ばれる長い戦争を行っていた。フィリップ善良公は、当初はイングランドと組み、フランスを追い詰めていた。

1430年にジャンヌ・ダルクを捕らえてイングランド軍に引き渡したが、翌1431年にはフランス王家と休戦、1435年にはフランス王家と講和した。この講和によって、百年戦争はフランスの勝利へ向かうことになる。

この百年戦争以降、イングランドとフランスは別々の国家となって、国民性を形成していくことになる。それまでイングランドはフランスのノルマンジー公の領地だったが、百年戦争の敗北によってフランス国内での足場を失い、その結果として完全にフランスから独立するのである。

フィリップ善良公の跡を継いだシャルル突進公(1433年 - 1477年、在位:1467年 - 1477年)の死後、ブルゴーニュ公国はフランスに吸収されることになる。ネーデルラント地方はスペイン・ハプスブルク家の所領になる。

ブルゴーニュ公国の消滅によって、少しずつ近代ヨーロッパの形が出来上がっていくのである。