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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

人生の最晩年に、庶民の日常を肯定的に描いたゴヤ

ゴヤは1824年にフランスに亡命し、ボルドーに居を構えた。

ゴヤはスペインの宮廷画家であったが、亡命の2年後に、宮廷画家を辞職している。

その当時のスペインでは、自由主義者は弾圧されていた。そのためゴヤは、主要な作品集の隠ぺいをしていた。最初の版画集である「気まぐれ」シリーズは、発売初日にゴヤ自身によって回収された。版画集「戦争の惨禍」と「妄」は生前に刊行されることはなかった。「聾者の家」に描かれた14枚の「黒い絵」も同様であった。

ゴヤを世界的な画家にした作品集は、ゴヤの生前には知られることがなかったのである。

批判精神に満ちた作品集は徹底的に隠ぺいされたのだが、《裸のマハ》(1799‐1800年頃)によって、1815年にゴヤは異端審問にかけられた。

ゴヤの身の安全を保障したのは、宮廷画家としての名声と地位だった。異国に亡命することによって身の安全を確保したゴヤは、宮廷画家を辞職したのである。

ゴヤが絵画史上における偉大な存在となったのは、ゴヤの死後のことである。ゴヤの死後に、隠ぺいされていた作品集たちは公開されていくことになる。

宮廷画家を辞職して2年後の1828年に、ゴヤは82年の生涯を終える。フランスに亡命して以降のゴヤは、数多くの作品を制作することはなくなっていた。

1825年から死の前年となる1827年の間に制作された《ボルドーのミルク売りの少女》は、ほぼ確定的にゴヤの絶筆として考えられている。

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ゴヤ作《ボルドーのミルク売りの少女》(1825-1827年頃)プラド美術館マドリッド

この絵にはゴヤの穏やかな心情が描かれている。人生の最晩年に、ゴヤは人間を肯定的に見ることができるようになり、自己の人生を受け入れることができたのではないだろうか。

そこに描かれていたのは、愚鈍な民衆ではなく、傲慢な王侯貴族や偽善的な聖職者ではなかった。庶民の日常が肯定的に描かれているのである。