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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ゴヤとマネによるバルコニーの男女

ゴヤはマハたちの絵を数多く描いた。マハというのは、特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で「小粋な女」を意味する単語だ。

ゴヤの描いた《バルコニーのマハたち》は、印象派の画家マネに大きな影響を与え、マネは《バルコニー》を制作する。

この二つの絵を並べてみよう。

はじめにゴヤの《バルコニーのマハたち》だ。

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ゴヤ作《バルコニーのマハたち》( 1808-1812年頃) 個人所蔵(スイス)

全身に光を浴びている女性二人がマハたちだ。暗闇の中の男性二人はマホと呼ばれた伊達男たちだ。光の中でのマハたちの会話は、暗がりのマホたちの存在によって、意味ありげなものに感じられるのである。

マネによる《バルコニー》は次の絵だ。

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マネ作《バルコニー》(1868-1869年頃)オルセー美術館(パリ)

構図はゴヤの《バルコニーのマハたち》とほとんど同じだ。二人の女性たちが光の中にいる。女性たちがバルコニーの前面で全身を光にさらしているのに対して、男性二人は奥の影の領域にいる。ゴヤの絵と異なるのは、男性のうちの一人が、光の中に半身をさらしていることである。そしてもうひとつ異なる点は、ゴヤの絵では、暗がりの男性たちが、マハたちの視線や会話に、沈黙しながら注目しているのに対して、マネの《バルコニー》では、女性二人は会話を交わしておらず、男女四人がそれぞれ違うところを見ているという点である。

マネの《バルコニー》について、ミシェル・フーコーは、光と影で分割された絵だという。

すべての光はタブローの前面に、すべての影はもう片方に位置しており、あたかもキャンヴァスの垂直性そのものが、背後の影の世界と前面の光の世界とを分け隔てているかのようです。
ミシェル・フーコー(阿部崇訳)『マネの絵画』

光と影で分け隔てられた世界で、光にさらされた三人の男女は、光と影の境界にいるとフーコーはいう。

そして、この背後の影と前面の光との境界にこの三人の人物がいて、彼らはいわば宙吊りになっていて、ほとんど何もないところに浮いているようです。(同前)

フーコーは光の世界と影の世界を、生と死の境界を示すものだという。

三人の人物がそこに浮かび上がらせているのは、まさしく、そうした生と死との、光と闇との境界なのです。そしてその三人の人物は、彼ら自身も何かを見つめているのですが、それはわれわれには見えない何かなのです。(同前)

三人の人物は生と死の境界にいて、それぞれに何かを見つめている。しかし彼らが何を見ているのかは、絵の鑑賞者であるぼくたちにはわからない。彼らが宙づりの状態で、それぞれに何かを見つめていることに、この絵のモチーフはあるのだとフーコーはいうのである。

マネの《バルコニー》に対するフーコーの指摘からひるがえって、ゴヤの《バルコニーのマハたち》を見ると、マハたちが光と闇の境界の中にいることがわかる。マハたちのいる光と闇の境界もまた、生と死の境界なのだろう。しかし、ゴヤの描くマハやマホたちの視線は、全員が同じものを見つめ、同じものを感じているのだ。

マネが近代社会において描きたかったのは、死の喪失なのかもしれない。近代以前の社会では、日常生活は死と隣り合わせにあった。死と隣り合わせの生だから、生と死の境界でたわむれることもできた。

近代市民社会において、死は日常生活から追放される。しかし死は日常生活から隠されるだけであって、各自は何らかの形で死と向き合わざるを得ない。それは個人的に向き合うのである。