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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

カラヴァッジョ――地上的な聖なるもの

カラヴァッジョ

カラヴァッジョの絵は、依頼主から受け取りを拒否されたことが幾度かある。聖なるものとして描かれるべき使徒や聖人たちが、地上的な人間として描かれたためである。

《聖母の死》も受け取りを拒否された作品の一つだ。聖母としての神々しさに欠け、人間の死体に見えたからである。

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カラヴァッジョ作《聖母の死》(1605-1606年) ルーヴル美術館(パリ)

この絵は、ローマのサンタ・マリア・デラ・スカーラ聖堂を飾るはずであったが、依頼主の教会から絵の受け取りを拒否された。

なぜカラヴァッジョは、受け取りを拒否されるような絵を描くのだろうか。おそらく聖なるものに対する概念が、依頼主たちと異なっていたためなのだろう。

カラヴァッジョにとって、何が聖なるものだったのだろうか。それを考える手がかりとして、《ゴリアテの首を持つダビデ》という作品がある。

少年ダビデは敵対していたペリシテ軍の屈強な闘士ゴリアテの額を投石によって打ち倒す。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリアテの剣を抜いて、その首を刎ねた。

彼はゴリアテの頭部を悲しげに見つめる。ゴリアテの頭部は、カラヴァッジョ自身の自画像であるとされている。

ゴリアテの剣は、カラヴァッジョにとっては、絵を描く能力だった。それは鋭いものであったが、危険なものでもあったからである。カラヴァッジョのような才能は、教会の規範に収まるものではなかった。常に規範を乗り越えてしまう才能だったのである。

自らの剣(才能)によって首を刎ねられるのは、カラヴァッジョ自身の姿である。しかし、そのような自分を慈愛の目で見つめるダビデがいる。

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カラヴァッジョ作《ゴリアテの首を持つダビデ》(1609年 - 1610年)ボルゲーゼ美術館(ローマ)

ダビデは地上的な存在であるとともに聖なる存在であった。地上的な聖なるものである少年に斬首されることによって、カラヴァッジョは聖なるものに触れることになる。キリスト教において殉教は、信仰の勝利を意味するものだった。

カラヴァッジョは通常とは異なる方法で殉教することになる。罪人(つみびと)である自分は斬首されなければならなかった。この斬首が、カラヴァッジョにとっての殉教にあたるものだった。罪人は斬首されることによって、霊的に救済される。

これがカラヴァッジョにおける信仰の勝利を表現するものだっといってもよいだろう。この絵はカラヴァッジョにとってのレクイエムだといえるのである。

1610年にカラヴァッジョは亡くなっている。