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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

カラヴァッジョ――罪人

カラヴァッジョの描く宗教画は、神聖化された人間を描くものではなかった。どのような聖人であれ、地上2メートル以内でもがき苦しむ人間として描かれていた。

2メートルというのは、空から俯瞰する高さではなく、水平に人間を見る高さだ。その高さには、天空的な高揚感はない。人間たちの生活の場があるだけだ。

人間たちは生活の場の高さでもがき苦しんでいる。そして多くの社会では、もがき苦しむ人が罪人とされる。罪人とされた人たちを救うために、イエスは地上に降りてくる。

自分は罪人を招くために地上に来たのだとイエスはいった。

「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。……わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
(「マタイによる福音書」9:12-13、日本聖書協会

義人とは、利害を顧みず、正義を重んじる人のことをいう。 「マタイによる福音書」によると、イエスは正しい人たちを招くためではなく、罪人を招くために地上に降りてきたのだ。この転換点で、罪人は聖なるものに変換される。

罪人こそが救われるのだという宗教的パラドックスを描くために、カラヴァッジョは地上的な苦闘のシーンを描き続けたのだといえるのではないだろうか。

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カラヴァッジョ作《聖マタイの殉教》(1599-1600年)サン・ルイジ・ディ・フランチェージ聖堂(ローマ)

惨劇は地上2メートルの空間で展開される。残虐な殺人は、雲に乗った天使が差し出す棕櫚によって、殉教の場へと切り替わる。

罪人とは誰のことなのか。それがカラヴァッジョの問いなのかもしれない。それは隠された問いだ。

聖マタイと天使を結ぶ天上的な縦のラインによって、殉教は信仰の勝利であることが表現される。だからこそ、この絵は教会の聖堂を飾るのだ。

その一方で、鑑賞者の視線は、地上的な殺人者の肉体にフォーカスされることになる。

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カラヴァッジョ作《聖ペテロの磔刑》(1600年)サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂

逆十字架に架けられるペテロの手のひらや足裏に突き抜けた釘が生々しい。この生々しさで、ペテロが生身の人間であり、老人であることがわかってしまう。聖人としての神秘性は剥ぎとられているのだ。

刑を執行するために、十字架の縄を引っ張り上げる人間、十字架を手で起こそうとする人間、十字架を背中で押し上げる人間がいる。労働者が日常的に行う労働の一環として、彼らは刑を執行しているにすぎない。

この磔刑のシーンでも、罪人とは誰のことなのかと問うカラヴァッジョの視線があるように感じられる。