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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ラファエル前派は、なぜ「ラファエロ」を名乗ったのだろうか

ヴィクトリア朝時代(1837-1901)の大英帝国の美術界を牽引したラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood、1848‐1853)は、なぜラファエルという名称を自分たちのグループに用いたのだろうか。

ラファエルという名称は、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家であるラファエロ・サンティ(Raffaello Santi、1483-1520)を指す。ラファエル前派というのは、ラファエロ以前を目指すということであり、ラファエロの権威を否定し、イタリア・ルネッサンス以前の中世ヨーロッパの騎士道的なファンタジーを確立しようとするものだった。

ラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれている。

なぜダ・ヴィンチミケランジェロではなく、ラファエロなのか。

その理由の一つに、ラファエロカトリック教会を代表するフレスコ壁画を制作したこともあるかとおもわれる。

カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ大聖堂を飾るフレスコ壁画は、その主な部分がラファエロによってを制作された。

ラファエロは二人のローマ教皇の寵愛を受けた。ユリウス2世(在位1503-1513)とレオ10世(在位1513-1521)だ。絵はラファエロによる二人のローマ教皇の肖像画だ。

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ラファエロ作《ローマ教皇ユリウス2世の肖像》(1512年頃)ナショナル・ギャラリー所蔵

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ラファエロ作《ローマ教皇レオ10世の肖像》(1518年)ウフィツィ美術館所蔵

ラファエロが二人のローマ教皇の寵愛を受け、盛期ルネサンスを代表する作品を描き続けた1508年から1520年までの間に、ルターによる宗教改革(1517年)が起きる。

レオ10世は、1517年にサン・ピエトロ大聖堂建設資金のためにドイツでの贖宥状(俗に言う「免罪符」)販売を認めた。それがマルティン・ルター(1483-1546)の憤激を招き、宗教改革の直接のきっかけになった。

サン・ピエトロ大聖堂のフレスコ壁画は、現代においてもヨーロッパ美術を代表するものであり、16世紀以降の画家たちの学ぶべきモデルとなったものである。その主要部分を担当していたのは、ラファエロだった。

つまり、ヨーロッパ美術の大権威に抵抗することが、大英帝国の若き美術家たちのモチーフだったといえる。大権威に抵抗し、抗議する者として、彼らは、ラファエル前派を名乗ったのである。

ラファエロ以前というラファエロに抵抗するような名前を掲げることによって、彼らはローマ教皇に抗議するルターの位置に自分たちを置くことになったのである。

大英帝国プロテスタント(反抗する者、抗議者の意)の国の一つだった。そこにラファエル前派が社会的成功を収めた理由があるのだろう。大英帝国のプライドを築くには、最良のネーミングだったといえるのである。

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ラファエロ作《アテネの学堂》(1509-1510年)バチカン宮殿所蔵