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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

《皇帝マキシミリアンの処刑》

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奇妙な絵である。エドゥアール・マネによる《皇帝マキシミリアンの処刑》(1868年、252㎝×305マンハイム市立美術館)だ。

マキシミリアンはオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世の弟で、フランスによって1864年にメキシコ皇帝に祭り上げられた人物だ。しかし、1867年に先住民出身の大統領によって帝位が取り消され、銃殺刑に処せられている。

その銃殺刑のシーンを描いたのがこの絵である。歴史的な事柄はさておき、ぼくらをびっくりさせるのは、処刑する者と処刑される者との距離の近さだ。あまりに距離が近すぎて、銃口は処刑される者の胸元で火を吹いている。

もちろん現実にはありえないことだ。なぜマネは、リアルを無視したような描き方で描いたのだろうか。

ミシェル・フーコーは、マネは絵画を本物らしく見せる技法を解体したのだと指摘してる。絵画に描かれた人物たちのアンバランスさをフーコーは次のように表現する。

人物は、全員が同じように〔画面下方の〕細長くて小さい長方形の上に描かれていて、その上で足を揃えて立っている。彼らはみんなその小さな空間に押し込まれていて、互いに非常に近い距離にいる。あまりに互いに接近しているために、ご覧のように、小銃の銃身が胸に触れてしまっています。……銃殺の執行隊と、銃殺される人々とのあいだに距離はないのです。
ミシェル・フーコー(阿部崇訳)『マネの絵画』

つまりマネの絵画では、「銃殺の執行隊と、銃殺される人々とのあいだに距離」よりも、人物達が立っている地面の「細長くて小さい長方形」のほうが重視されているということだ。なぜか。それは遠近法を無視するためだとフーコーは言う。

お解りでしょうか、こうして、マネが描き、人物を配置したこの小さな長方形のまさに内部において、〔遠近法などの〕西洋における絵画的知覚の根本原則が解体されようとしているのです。(フーコー同前)

遠近法などのように本物らしく見せる技法を放棄することによって、絵の主題(銃殺刑)は生々しく鑑賞者に迫ってくる。マネは絵画の常識(絵画的知覚)を覆そうとする。そうすることによって、「別の絵画的空間」が開かれるのだ。

かつて、絵画的知覚とは、いわば日常的な知覚の繰り返し、反復、再生でなければなりませんでした。そこで表象されるべきものは、あたかも我々が自分で風景を見ている時のように距離を読みとり、見積もり、解読することができる、ほとんど現実のような空間だったのです。しかし、ここでは、我々は別の絵画的空間に立ち入ろうとしている。(フーコー同前)

それはどのような空間なのか。それは絵画で描かれる空間が、リアルをまねる必要がないという空間である。

距離をもはや見ることができず、奥行きがもはや知覚の対象ではなく、人物の空間的配置や隔たりが、絵画の内部においてしか意味を持たず機能しない記号によってのみ表現されるような空間なのです。(フーコー同前)

マネ以降、絵画によって表現される空間は、記号のみによって表現される空間になった。そのことによって、絵画は表現における様々な試みや冒険が可能になったといえるのだろう。