rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

こどもの平等思想と正義感を育む外遊び

戦後の沖縄では、小学校から高校まで、公立の学校には学校図書館が設置され、専属の図書館員が配置されていた。1980年代に中学校の図書館司書の仕事をしたことがあった。同じ職場なので教員たちと同席することも多く、教員たちの愚痴を聞くことも少なくなかった。家庭でのしつけができていないから子どもたちがぐれる、というたぐいの愚痴である。

家庭でのしつけの欠如という愚痴に耳を傾けているうちに、あることに気づいた。自分は親からしつけを受けた記憶がなかったのである。守るべき社会的マナーを教えてくれたのは、家族ではなく、家族以外の隣近所の人たちだった。

儒教的なタテマエでは「ヤーナレードゥ、フカナレー」(家の中でのしつけが、よそに出たときの教育になる)という言葉もあったが、それはあくまでもタテマエであった。キッズグループの一員として路上で群れる中で、いつとはなしに、していいこととしてはいけないことの区分が身に付くようになったのである。

民俗学者柳田國男(1875-1962)は、成長段階によって変化する子どもの遊びの中で、親の目の届くところから離れた「外遊び」という時期を設定している。柳田はこの外遊びの時期に、「平等思想、または正義感の客観価値ともいうべきものが、徐々に体験せられる」とみているのである。

いわゆる外遊びの効果のもっとも大きかったのは、満四年前後に始まり、それから後の三年、四年ほどが、人を社会人に仕立てる適切な時期だったように私は考える。大げさな言葉でいうならば、平等思想、または正義感の客観価値ともいうべきものが、徐々に体験せられるのもここであった。……具体的な例を一つ出すと、外遊びの幼児らの最も喜ばなかったことは、兄姉から親祖父母までの、一切の年長者の干渉であった。もちろん腹を立てたり言いつけたり、泣いて帰ったりする子もたくさんあったが、それをするとこの次の遊びが、目に見えておもしろくなくなる。ゆえによっぽどあまやかされる家の子でも、この群の楽しみという共同の大事業のために、性来のやんちゃ我がままを自ら制御しようとしたのである。親の教えなかった言葉や行動を、ここで学んでくることは相応に多い。
柳田國男・丸山久子『改訂 分類児童語彙』)

このような「平等思想、または正義感の客観価値」を身に付ける「外遊び」を有害とみなしたのが、近代日本における中流意識であったと柳田はいう。

それを一括してみな有害のように、断定したのが近世の中流常識であったが、それを防衛するのには、隔離が唯一の対策であったかどうか。(前掲書)

 「外遊び」を有害とみなして、子どもたちを学校や家庭の中に隔離しようとしたのが「近世の中流常識であった」と柳田はいう。ぼくが聞いた教員たちの愚痴も、この「中流常識」に基づくものであった。

柳田のいう「近世」は歴史区分ではなく、現在に近い過去の世を指し、「近頃」という意味で用いられている。柳田による改訂前の『分類児童語彙』は1949(昭和24)年の発行となっているので、「近世の中流」というのは戦前の新中間層のことを指しているのだといえよう。新中間層というのは、官公吏、教員、会社員、職業軍人などの近代化とともに生まれ、学校教育を媒介として獲得された近代的職業に就いた人々のことをいう。

新中間層は大正年間にある程度の厚みを持った社会階層として登場してくる。女性史学の小山静子によると、「大正9(1920)年において、新中間層は全国民の5-8%だった」(『家庭の生成と女性の国民化』)。戦前においては、全人口の一割にも満たない存在であったが、西欧近代の生活様式を移入しうる存在であり、日本における近代家族のモデルとして大きな影響を与えることとなった。

柳田がいう「外遊び」を浮世絵から見てみよう。次の絵は絵師不詳の『子供げんくわの図』(1868年作、ボストン美術館収蔵)である。1868年は明治維新の年なので、明治元年にあたる。左側には弟妹をおぶって皆を指図している子がいる。中央あたりには取っ組み合いをしている二人もいる。このような戦闘ごっこを通して、相手に殺意がないことを前言語的なレベルで了解し、安心・信頼できる仲間関係を築いていくのである。
f:id:rapanse:20160217155138j:plain
 子どもたちが遊んでいるのは道路であった。明治時代に日本を訪れた外国人によると、日本の道路は子どもたちに占拠されていたということである。

エドウィン・アーノルドは1889(明治22)年来日して、娘とともに麻布に家を借り、一年二ヵ月滞在したが、「街はほぼ完全に子どもたちのものだ」と感じた。「東京には馬車の往来が実質的に存在しない。四頭立ての馬車はたまにしか見られないし、電車は銀座とか日本橋という大通りしか走っていない。馬にまたがり、鞍垂れをつかんで走る別当を連れて兵営を往き帰りする将校にときたま出会うくらいだ。こういったものは例外だ。従って、俥屋はどんな街角も安心して曲ることができるし、子どもたちは重大な事故をひき起す心配などこれっぽちもなく、あらゆる街路の真っただ中ではしゃぎまわるのだ。
渡辺京二『逝きし世の面影』)

 道路が子どもたちに占拠されていた理由は、江戸時代の禁令によるものだといえる。漫画家であり江戸風俗研究家であった杉浦日向子(1958-2005)によると、「江戸の道では非常時以外は走ることが禁じられて」いたという。だから道路が子どもたちにとって安全な遊び場所であったのだ。

江戸の道では非常時以外は走ることが禁じられていました。歩く速度以上はスピード違反となります。船便を含むすべての物流も歩くスピードで流れていました。馬もです。馬に荷を乗せて、馬子さんが馬の口をとって歩くからです。馬を走らせますと、イコール有事、どこかで内乱が勃発した、戦が起こった、これにほかならないのです。
杉浦日向子『うつくしく、やさしく、おろかなり――私の惚れた「江戸」』)

次の絵は葛飾北斎による『絵本庭訓往来』(1828年作、ボストン美術館収蔵)である。人々が忙しげに行き交う繁華街の道路で、夢中になって犬と戯れている子どもの姿が描かれている。

f:id:rapanse:20160222063617j:plain

 次の絵は歌川国定三世による『子供あそび 子をとろとろ』(1877年作、ボストン美術館収蔵)である。大人たちの目は子どもたちに向けられてはいない。1877年というのは明治10年にあたる。時代は明治に入っているが、まだ道路は子どもたちの安全な遊び場だったのである。

f:id:rapanse:20160217155339j:plain

 柳田がいうように、「外遊び」が子どもたちに「平等思想、または正義感の客観価値ともいうべきものが、徐々に体験せられる」場であるならば、それこそが民主主義の精神を育成する場だといえるだろう。どのようにしてぼくたちは、そのような場を再構築していくことができるのだろうか。