rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

北斎の描く那覇

「具志堅君は知らないだろうけれど、昔の那覇は水の都だったんだよ」、物静かな口調で、こんなことを教えてもらったことがある。宴会の始まりを待つ、日常生活からハレの席に移るパサージュ(passage通過)の時間を共有しているときだった。

ぼくに話しかけられたのは、あと一年で那覇市役所を定年退職する予定の先輩職員。時代は1990年代あたりだっただろうか。先輩が60歳手前だったとすると、1930年代から40年代あたりの話、つまり戦前の那覇の話をされたのだということになる。

宴席は泉崎の久茂地川沿いの店だった。先輩の話によると、久茂地川は現在の下水の側溝のような規模の川ではなく、小舟が行き来するほどの川であり、そこに泉崎橋という大きな橋がかかっていたということだった。

葛飾北斎の浮世絵に《琉球八景》(1833年)シリーズがあり、泉崎橋が描かれている。絵①「泉崎夜月(いずみざきやげつ)」(ボストン美術館収蔵)。

f:id:rapanse:20160217110522j:plain
 那覇は古くは那覇四町(よまち)といわれ、西・東・若狭町・泉崎の4カ村が那覇であった。絵の中央の橋の手前に描かれているのが泉崎であり、橋の先は、「浮島」と呼ばれる那覇であった。1797年ごろに作成された「琉球国惣絵(そうえず)図」を見ると、那覇が島だったことがわかる。
f:id:rapanse:20160217110639j:plain
 地図の左側の境界は海に面している。地図に表わされている地域は、士族の住む首里泊村・久米村・那覇、農民の住む真和志(まわし)間切(まぎり)、小禄(おろく)間切、豊見城間切、南風原間切となっている。間切というのは現在の市町村にあたる。

現在の国際通り新都心は、真和志間切に含まれる。小禄間切の西側には現在の那覇空港がある。小禄間切の南にある島がデートスポットで有名な瀬長(せなが)島である。豊見城間切の沖にある島が現在の豊崎にあたる。

真和志間切と小禄間切との間には漫湖がある。奥武山(おうのやま)は、漫湖に浮かぶ島である。漫湖那覇ハーリーもできるほどの巨大な湖だった。

那覇はもともとは内海に浮かぶ小島で、浮島と呼ばれていた。その浮島に設けられた交易都市が那覇だったのである。

ちなみに「琉球国惣絵図」の浮島にあたる部分で、黄色系の色で塗られた部分は、中国からの帰化人の子孫が住む久米村(クニンダ)である。絵②「粂村竹籬(くめむらちくり)」(ボストン美術館収蔵)

f:id:rapanse:20160217110806j:plain

 那覇には三カ所の遊郭があった。辻(ツジ)・渡地(ワタンジ)・仲島(ナカジマ)である。1672年に琉球王国が設置したものである。

遊郭波上宮(なみのうえぐう)の南側に位置していた。琉球八景で波上宮は、絵③「筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)」(ボストン美術館収蔵)というタイトルで描かれている。久米村から那覇に東西を抜ける通りがある。その通りの果てに岬があり、岬の岸壁に波上宮があった。筍崖というのは筍(たけのこ)のような岩の崖を意味する。波上宮の南には辻遊郭があった。

f:id:rapanse:20160217110900j:plain

 那覇小禄間切の間の水路が、大交易時代の国際交易港であった那覇港である。那覇港の入り口には、外敵の侵入に備えて、三重城(ミーグシク)と呼ばれる要塞が港を守っていた。そのミーグシクに至る道の途中に、臨界寺、沖宮(おきのぐう)という寺社があった。次の絵④のタイトルは「臨海湖声 (りんかいこせい)」(ボストン美術館収蔵)である。那覇港には渡地遊郭があった。

f:id:rapanse:20160217111034j:plain

 三重城の対岸には花城(ハナグスク)と呼ばれた波の上(ナンミン)がある。波の上と三重城の間の入り江が、「西(にし)の海」である。

絵⑤は「中島蕉園(なかしましょうえん)」(ボストン美術館収蔵)である。久茂地川によって浮島と隔てられていた泉崎には、仲島という遊郭があった。現在のバスターミナルのあたりである。18歳で亡くなったという琉歌の女流歌人・吉屋チルー(1650?-1668?)は、仲島遊郭の遊女であった。絵の中島蕉園が仲島遊郭というわけではないが、近隣であることに変わりはない。

f:id:rapanse:20160217111126j:plain

これらの絵を描いた北斎は、実際に琉球を訪れたわけではない。1756年に来琉した冊封使〔中国王朝の皇帝が付庸国の国王に爵号を授けるために派遣する使節〕・周煌が書いた琉球の見聞録『琉球国志略』に収録された絵図(「中山八景」)をもとに描いたのである。このようなネタ帳があれば、浮世絵の絵師は、存分にイマジネーションを展開させることができたのである。

批判めいたことを口にすることのない、控え目な紳士だった先輩は、少年時代を思い返したのか、珍しく首里那覇との比較をした。「贅を尽くした沖縄料理は、那覇で発達したものだ。お金のなかった首里の人たちには、あのように手の込んだ料理を作ることはできなかった」と。そのとき初めてぼくは、那覇人(ナーファンチュ)という存在を意識した。

「中山」というのは琉球王国を指す言葉だが、冊封使の描いた「中山八景」といい、北斎の『琉球八景』といい、描かれた舞台は首里ではなく、ほとんどが那覇の風景であった。ナーファンチュという存在にフォーカスすることによって、異なる沖縄が視えてくることになる。