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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ナーファンチュ(那覇人)のカタクチワレー(片口笑い)

北斎の描く『琉球八景』(1833年)の一つに、「長虹秋霽」(ちょうこうしゅうせい)がある。長虹というのは長虹堤のことだ。長虹は、海に浮かぶ虹を意味する。秋の晴れた朝に橋に佇めば、虹の上に佇んでいるようであるということを意味する絵である。

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 長虹堤は堤防と橋からなる道で、現在の那覇市泊の崇元寺(そうげんじ)付近と松山付近を結んでいた。全長約1キロメートルで1451年に建築された。絵の右側の堤のたもとが崇元寺付近で、堤の左側の陸地が、久米村(くにんだ)を含めた那覇になる。長虹堤のかかっていた海が、現在の安里川になる。

長虹堤から浮島(久米村・那覇からなる)に渡ると、道はそのまま那覇港まで続くものであった。

現在でも崇元寺を出発地点にして、一銀通りの旧ダイナハの裏の「七つ墓」までは、長虹堤の跡をたどることができる。そこから先、道は忽然と消えてしまう。

戦後の那覇はその全域を米軍に接収され、ナーファンチュは那覇に戻ることができなかった。そのため那覇の郊外だった現在の国際通りのあたりに闇市が発生し、それが現在の那覇市へ発展していくことになる。

戦後5年を経た1950年に、那覇市の旧市街地のほとんどが解放される。しかし解放とともに都市計画が施行され、区画整理事業が進められる。その結果、那覇は戦前の面影を失い、歴史的な痕跡をほとんど残さない状態に変化することになる。

現在、長虹堤から那覇港までの跡をたどることができないのは、戦後に行われた区画整理事業によるものである。地形が変わり道路の区画が変化して、歴史的に続く過去の痕跡がほとんど残されなかったのである。

米軍接収とそれに続く区画整理事業の間に、多くのナーファンチュは旧那覇の郊外(現在の那覇市内)に居を構えてしまい、那覇に戻らなかった。正確な数字を知ることはできないが、少なくとも、戦前のようなナーファンチュという地縁コミュニティを形成することはなかった。

なぜ那覇の人たちは那覇に戻らなかったのだろう、とナーファンチュに聞いたことがある。その答えは、那覇の人たちは借地人が多かったので戻らなかったのだろうということだった。聞いていて釈然とはしなかったのだが、ナーファンチュが土地にこだわりを持つ人間ではないことだけは了解することができた。

ぼくの質問に答えてくれた彼は、微笑の絶えない男性だった。あるとき、微笑している彼の目が笑っていないことに気がついた。これがナーファンチュ特有の口の端だけで笑うカタクチワレー(片口笑い)なのだと思った。フレンドリーなのかもしれないし、フレンドリーではないのかもしれない。両方の感情を同時に表現できるのだ。

これが大交易時代を担ったナーファンチュの表情だといえる。文化の違う人々に対して、フレンドリーであるとともにナイーブではない、という外交官的な感覚である。

ナーファンチュが旧那覇に集住しなかったために、那覇は一つの核心を失うことになった。戦後の那覇は、奄美諸島から八重山諸島までの、文化を別にする人たちの集住する地域となった。

そのような多様な人々が雑居するためには、物差しのような核になる文化も必要になる。しかし旧那覇の文化を継承すべきナーファンチュが集住していなかった。それに反して王朝文化のプライドを持つ首里の人たちは、戦後も戦前と同じ地域に集住した。

ナーファンチュが那覇に集住せず、スインチュ(首里人)が首里に集住して残るといった形態は、首里にとっても那覇にとっても不自然なものであっただろう。王都である首里と国際交易都市である那覇がバランスを保つことによって、琉球王国は存在していたのだから。

ナーファンチュのカタクチワレーを思い出すことによって、ぼくたちはもう少し異なる文化の人たちにフレンドリーになることができるかもしれない。そして、フレンドリーではありながらナイーブではないという文化を、ナーファンチュから受け継ぐことができるかもしれない。