rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

シマの獅子舞

夏休みも過ぎた9月のあたりに、ぼくたちのシマでは、村芝居というのがあった。旧名護町の東江(あがりえ)という集落がぼくたちのシマだった。

9月のあたりというのは旧暦8月15夜の中秋の名月のことをいう。旧暦8月13日から三日間、シマの公民館で琉球古典舞踊や獅子舞、組踊などの演目が興行される。村芝居というのは、シマのことを村ともいうからシマで催される芝居のことをいうのだろう。プロの芸能者が行う演芸ではなく、シマの人たちによる演芸だった。

シマというのは現在の行政区域でいうと「字(あざ)」にあたるものだが、もっと強烈な地縁共同体を意味する。民俗学者の佐喜眞興英(1893 - 1925)によると、シマという言葉は「国又は村落共同体を意味する」ものであった。

シマの語は学者間に知られたロシア語のミイルに相当するように思う。しかもシマが国又は村落共同体を意味するごとくミイルもまた世界又は村落共同体を意味するとの事であるから……両語はその心持ちまで一致しているようである。
(佐喜眞興英『シマの話』1925年)

 公民館というのも行政の公民館とは異なる。シマの行政機関であり、庁舎だったのである。

村芝居の三日間、子どもたちは学校の終わった昼過ぎから公民館前の広場に集まり、朝からそこに敷かれていた筵の番をしていた。1950年代から60年代の前半にかけてのことである。村芝居が始まると、公民館前の広場には、立錐の余地もないほどに見物客が集まるものだった。だから自分たちの家や親族の筵の位置が動かされないように番をすることは、子どもたちの大切な仕事だったのである。

昼過ぎの公民館前の筵の番をしている時間帯に、出演者全員による道ジュネーが行われる。道ジュネーというのはパレードのことで、シマの中を練り歩く。

この道ジュネーの中で、子どもたちの一番人気は、一頭の獅子だった。中に人間が入っているなどいうことは想像することもできなくて、子どもであるぼくたちは獅子が山から下りてきた本物の獅子だと信じていた。

獅子の周りには幾重もの子どもたちの人垣ができていた。青年二人が入った獅子は、時折子どもたちを追い散らした。獅子が子どもたちに向かうと、子どもたちは蜘蛛の子を散らすように逃げまどうのだった。

村芝居の演芸は子どもたちにとっては格調が高すぎて、ほとんどの時間を眠りこけてしまうのだった。しかし獅子が登場するときは別だった。子どもたちは、この時を待っていたのである。

東江の獅子舞の特徴は、獅子ワチャクヤー(からかう者)が猿だったことにあり、「猿舞」とも呼ばれている。二匹の猿が梯子に登って、梯子の上から獅子をからかうのだ。その猿と獅子の掛け合いは、子ども心に手に汗を握るものだった。猿が獅子をからかいすぎて、獅子に手足を噛まれる年もあった。猿舞のストーリーは次のようなものだ。

猿2匹が十五夜で遊んでいる時に獅子も呼んで一緒に遊ぼうということになり、鈴で獅子を連れ出す。獅子ワチャクーをしているとついに獅子が怒りだし鈴を奪ったので、猿はびっくりして逃げ出してしまう。(『名護地区の芸能』より)

 猿との掛け合いが終わると獅子が舞う。その勇壮な姿がぼくたちをうっとりとさせる。獅子舞は二度演じられるのだが、そのどちらかで、獅子の舞いが終わると区長が出てきて、うやうやしく獅子に神酒を捧げる。獅子は東江というシマを守る神だったのである。

そして区長は獅子の前で、おめでたい席を寿ぐ「かぎやで風」を踊る。そのときの区長の踊が下手だと、何年たってもそのことが語り草になる。踊りも区長の重要な役割なのである。写真は東江の獅子舞である(平成22年度美術館・博物館活動基盤整備支援事業「みんなで学ぼう名護・やんばる講座2」「名護ある記」より)。




 獅子を現し身(うつしみ)の神であると信じるのは、神話的思考なのだろう。その神話的思考は子どもたちだけにあったのではなく、シマンチュ(シマの人)に共有される思考法だった。村芝居の席は、ざわめきの賑わいとともに、厳かな雰囲気を湛えるものだった。

二十数年ほど前に石垣市白保の獅子舞を見たことがあった。白保で鑑賞した獅子舞は、舞台ではなく、ある旧家の庭で舞われるものだった。庭には真っ白い珊瑚の砂利が敷き詰められていた。獅子から出てきた裸足の青年に、足の裏は痛くないのかと聞いた。すると、獅子に入っている間は痛さを感じないという返事があった。演じる側にも神話的思考が息づいており、そのために獅子が現し身の神になるのだろうとおもわれた。