rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

曾祖母と詩的言語

旧暦8月13日から15日にかけて催される東江(あがりえ)の村芝居では、ぼくたちの筵の席は、公民館広場の真ん中あたりに取られることが恒例になっていた。そこに曾祖母を中心としたぼくたち一族が陣取ることになる。

曾祖母といっても父系のつながりではない。曾祖母の長女はぼくの父親の母親であった。曾祖母は自分が住む屋敷の敷地内に長女である娘(ぼくにとっての祖母)を住まわせた。長女である娘はそこで家族を形成し、長男であるぼくの父はその跡を継いだ。

そのような経緯によって、曾祖母の家とぼくの家の間には明確な境界線はなく、精神的な敷居も低く、村芝居の席では当然のごとく同席することになる。

東江の村芝居は組踊を中心の演目にしていた。組踊は歌と踊りを伴う悠長な演劇で、子ども時代のぼくには理解のできる代物ではなかった。中学・高校と年齢が進むにつれ、組踊というものが琉球王朝文化を代表する演劇であり、それを演じることがシマの誇りであることがおぼろげながらわかってきた。

高校生や大学生くらいになると、なんとか組踊を理解しようとがんばるのだが、ストーリー展開のあまりの悠長さに、これを演劇として鑑賞することができなかった。ところがぼくの隣に座る曾祖母は、組踊を見てさめざめと泣き、拍手するのだ。

ぼくはいつごろ、曾祖母が組踊の良き鑑賞者であることに気づいたのだろうか。おそらく自分が組踊に関心を抱き、なおかつ理解するのに歯が立たなかった頃――高校生か大学生の頃――だろう。

同じ公民館前の広場に座る曾祖母とぼくを分かつのは、詩的言語と散文的言語によるものだといえるだろう。詩的言語というのは「価値」としての言語をいうものであり、散文的言語というのは「記号」としての言語をいうものである。

「価値」としての言語は、言語以前の言語的なものだといえる。赤ちゃんの「アァウゥ」から始まり、芸術へと至るものだ。芸術や芸能に触れるときに、言葉に表現できないものに触れるときがある。その言葉に表現できないものに「価値」があるのだ。

「記号」としての言語は意味を伝えるものである。それは商品交換における貨幣のようなもので、それ自体は価値を持たないが、商品の価値を表現するものとしてある。

作家の干刈あがた(1943-1992)は、このような言語の「価値」と「記号」という側面を、次のようにうまく表現している。

男の言葉と女の言葉は違うのではないか、いやもしかしたら女にはもともと言葉が無いのではないかという気もするのです。子供が赤ちゃんだった頃、私はアァとかウゥとかの短い音声で、彼が何を訴えようとしているのかがわかりました。原始人なども、会ったわけではないけれど、短い叫びで何かを伝え合いわかり合っていたようだし、母親と赤ちゃんのあいだで交わす音声は世界共通だとも聞きました。私たちの今の常識では、アァウゥから言葉を持ち、文字という記号を使うことによって、遠くの人とも伝達可能になったというようなことが、人間の文化、進歩だということになっています。けれど私には、アァウゥと五感ですべてがわかってしまうことの方が、すごいことなのではないかと思えるのです。
干刈あがた『樹下の家族』)

 原始人の言葉や母親と赤ちゃんの交わす音声が言語の「価値」であり、男の言葉や文字などが「記号」ということになる。

曾祖母はハレの日には即興で琉歌を詠むことができた。琉歌というのは八八八六の音数律定型詩のことをいう。曾祖母は1880年代の生まれだったが、曾祖母に限らずその時代の人たちは、特に意識して定型詩を詠むというのではなく、感情が高ぶると言葉がそのまま音数律定型詩として表出されるのだった。

曾祖母は標準語をしゃべることはなかった。それは、学校教育をほとんど経験していないということを意味していた。学校教育を経験しないことによって、曾祖母は詩的言語を、呼吸するように自在に操ることができた。

ぼくは学校教育によって、詩的言語を喪失していた。その代わりに散文的言語を獲得していた。ところが、散文的言語では組踊を鑑賞することはできなかった。

散文的言語には散文的な時間の流れが必要だったのである。散文的言語では意味を伝えることが重要なことであり、即興のような瞬間的なものだとか、組踊などのような悠長な時間意識には、対応することができなかったのだ。

曾祖母は詩的言語の話者であったので、散文的な時間の流れに支配されることはなかった。瞬間とか悠長さという時間意識の流れは、散文的な時間の世界だった。詩的言語の世界を持っている曾祖母には、そのような時間意識に邪魔されることなく、組踊のストーリーを自己と一体化させて楽しむことができたのだ。