rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

位牌とヒヌカン(火の神)に見るヤー(家)意識

1970年代の末ごろ、我が家は曾祖母の屋敷を離れることになった。どこに住まいを求めてもよかったのだが、父は東江(あがりえ)というウマリジマ(生まれシマ)にこだわり、東江のなかに新たに土地を購入し、家を新築した。

新築した家に転居する前に、兄とぼくの二人が、位牌と香炉を持っていってその新しい家に泊まった。儀礼の詳しい意味はわからないが、邪気払いの意味があったようだ。

兄が位牌を持ち、ぼくが香炉を持って、新しい家に入り、仏壇にその二つを設置した。仏壇にその二つが置かれたとき、建造物としての家がヤー(家)に変わるのを感じた。

それは瞬間的な変化であり、決定的な変化だった。建造物としての家ではなく、位牌と香炉の設置によって、ヤー(家)という精神的で霊的な存在が、建てられるのである。

そのときのぼくは、位牌の設置によって、建造物としての家が家族を意味するヤーに変化するのだろうと思った。

ところがその認識に誤りのあったことが、長い時間の経過とともに、徐々にわかってきた。結論から先にいうと、位牌に従属するものとしての香炉が、実はヤー意識の中心をなすものであり、香炉を移すことによってヤーが建つのだということだ。

位牌がヤーを建てるという認識に疑いを持ったきっかけは、1977年春季号の「月刊青い海」(津野創一編集、№61)に掲載されている記事「東江のピーヌウガン」(新聞記者の国吉真永による)を読んだことによる。古書店から購入した雑誌なので、読んだのは新居に転居して数年経ってのことだった。

東江のピーヌウガン(火の御願)は、男子禁制の女性たちの祭りだ。上記の記事によると、旧暦10月20日以後の吉日に、二日間にわたって行われる。

初日には、東江区内の20カ所の拝所でウガン(御願)がなされる。その日の夕方には、公民館前の広場で中学生以下の子どもたちにジューシー(雑炊)おにぎりがふるまわれる。記事では約800人の子どもたちに一個ずつおにぎりが手渡されたとある。

ぼくが子どもだった1960年代前半にもそれくらいか、それ以上の数の子どもたちがいたかもしれない。区の子どもたち全員に一個ずつのジューシーがふるまわれるのである。

旧暦10月20日は新暦の11月か12月にあたる。肌寒い風が吹く季節の中で、公民館の広場で1000人近い子どもたちが行列を作って、おにぎりをいただく。それが季節の懐かしい思い出であり、これほどおいしいと思えるジューシーはなかった。ぼくたちは文字通り、ご飯の一粒一粒ずつを味わって食べたのである。

子どもたちのためにジューシーを炊くのは、10班ある区の班の中から選ばれた50人の主婦たちだ。つまり、母親たちの集団だ。選り抜きの主婦たちが腕によりをかけて、共同作業でジューシーを炊くのだから、おいしいのは当然だった。

しかし、そのおいしさには、料理の味付けを超えたものがあったといえる。それは直会(なおらい)に当たるものであったからである。つまり、霊的な味付けが加えられていたのである。

ピーヌウガンの二日目は、各班にわかれ、一軒一軒まわって、台所のヒヌカン(火の神)、井戸、水道の蛇口にウガンする。

二日間にわたる行事が済んだ後、班ごとに50人前後の参加者による慰労会が行なわれる。会場は民家を使用するが、新築か出産した縁起のいい家が優先されるとのことである。

記事によると、慰労会場になった家の100メートル先から鼓の音がきこえたという。そこでは女性たちだけのどんちゃん騒ぎが夜11時過ぎまで続く。慰労会場に選ばれた家の男性たちは、女性たちに家を明け渡すために、午後8時前には家を出なければならない。

このような記事を読んで、新築した我が家も慰労会の会場になったのかと、母に聞いたことがあった。その問いに母は、接待で大変だったという返事をする。このたぐいのことを迷惑がる人だったのである。

会場になったのなら、父も兄もぼくも家を明け渡さなければならなかったはずだが、そのようなことを指示された記憶がぼくにはない。

先に香炉がヤー意識の中心をなすものであると書いた。位牌は現在でこそヤー意識の中心をなすものとされるが、その歴史は古いものではない。

系図持の士族階級においてすらも、位牌祭祀が定着してきたのは十七世紀以降とみられ、常民社会はその後の政治的な圧力にもかかわらず、全島的に定着したのは大正前後とみても差支えない。
(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)

 系図持というのは士族であることを明かす家系図を持っているということである。酒井は位牌祭祀が本格的な意味で民衆層に普及するのは、「大正前後とみても差支えない」と断定する。それくらい歴史は浅いのだ。

それならば、位牌普及以前にヤー意識の中心をなしたのは、なんだったのか。それはヒヌカン(火の神)だった。ヒヌカンは竈神であり、一家の主婦だけが祀る神であった。ヒヌカンの神体は、竈を象徴する香炉だった。位牌普及以前に拝まれていたのは、主婦の祀る香炉だったのである。

知念村の新垣孫一氏によれば昔は先祖を祀る位牌はなく、そのかわり、家の入口に香炉をおいて祖先の霊として拝んだという。小禄でも上原エリ子女史によれば、位牌はなくても、香炉のみで位牌があるのと同様にして祀らなければならないという。
(酒井、同前)

つまり、女性の祀る香炉が、ヤー意識を象徴するものとして祀られていたのである。

東江のピーヌウガンでは、初日にシマの中の20カ所の拝所が、女性たちによって拝まれる。そして二日目には、一軒一軒のヒヌカンが拝まれる。つまり、ヒヌカンを通して各家はシマ(地縁コミュニティ)の信仰と結びつき、シマの信仰と結びつくことによって、各家はヤー意識を確立することになるのである。

そして新築か出産した縁起のいい家では、女性たちによるオルギー(乱舞、乱飲、狂喜を伴う集団の激しい興奮状態、忘我的陶酔状態)な宴が催され、その家の繁栄を予祝するのである。

新築の家に転居するさい、ぼくは位牌がヤー意識を顕現させると思ったのだが、ヤー意識を顕現させたのは位牌ではなく香炉であったといえる。新築の家に香炉を据えることによって、家はヤーに変わり、地域コミュニティと霊的に結びつくことができたのだといえるだろう。