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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

アブシバレーと曾祖母

ぼくが大学生の頃であっただろうか。隣の曾祖母の家で、曾祖母とその家の嫁、二人の会話を聞いた。

曾祖母は「今日はアブシバレーの日だよ」という意味のことを言っていた。それに対して嫁は、「もう田んぼもないのに、アブシバレーをする必要はないでしょう」というぐあいに反論していた。その言葉に曾祖母は、うなだれて引き下がったのである。

年中行事について曾祖母が反論され、引き下がったことに、ぼくはびっくりした。年中行事は曾祖母が仕切るものであり、黙ってそれに従うことが、曾祖母を中心に築かれた母系親族集団の黙契(無言のうちに成り立つ合意)だと思っていたからである。

アブシバレーというのは、田植えのあとに畔(あぜ)の草刈りを行い、虫払いをして、豊作を祈願する年中行事のことをいう。名護市史によると、東江(あがりえ)独自のアブシバレーはなく、名護湾を囲む旧名護町、旧屋部村にまたがる名護のアブシバレーに参加するものだったようだ。

四月アブシバレーはかつて間切全体〔旧名護町、旧屋部村を含む名護間切〕の行事だった。まず、ナングシク〔名護城〕への遙拝が神女によってピンプンガジマル〔樹齢240年とも300年ともされる神木〕前の香炉でおこなわれたあと、大兼久馬場から先駆け馬二頭を先頭に、馬三十頭ほどを連れて、西にむかう。屋部川を渡り、屋部の古島の前からプーミチャー〔大神原〕を遙拝した。そこから引き返し、東江浜まで行き、喜瀬のシガマムイ〔聖地の森〕を遙拝する。そうして大兼久馬場に戻る。このあと馬場でウマハラシー(見物人の前を続々と早足で通る、安和ムラ以南から出た馬の姿を競う)をした。
(『名護市史本編9:民俗Ⅲ民俗地図』)

 名護のアブシバレーはシマ単位の年中行事ではなく、名護湾岸が一体となった競馬を中心とした盛大な祭りだったようだ。名護湾岸で生を受け、母系の一族を形成した曾祖母にとって、アブシバレーは重要な祭りの痕跡を残すものだったのかもしれない。

ぼくが小学生だった頃の旧名護町は、稲作が盛んだった。ぼくたちは田んぼの畦に行って、メダカを掬い、鮒(ターユー)を獲り、闘魚を獲った。写真は1945年、戦後すぐの名護の写真だ。山のふもとで、桟橋から北側にある集落が東江(あがりえ)で、東江の集落の外側の方はほとんどが田んぼだった。

nago

その田んぼがいつの間にかサトウキビ畑に変わり、さらに市街地に変化していった。ぼくが大学生だった1970年代前半には、東江の周辺に田んぼは、残されていなかったのだ。

しかしもはやアブシバレーをなすべき田んぼが残っていなかったにせよ、曾祖母の言葉を否定するのは、ある意味で驚きであり、重要な事件ともいえるものであった。年中行事に合わせた季節ごとの祈りは、曾祖母によってなされるものであり、その祭祀の否定は、司祭者としての曾祖母の権威を否定することを意味したからである。

東江というシマには、曾祖母の家から半径500メートル以内に、曾祖母の長女の家だったぼくの家があり、その長女の長女だった父の妹の家があった。さらに曾祖母の末娘の家もあった。

曾祖母の家、ぼくの家、長女叔母さんの家、そして父よりも1歳だけ年上だった曾祖母の末娘の家、それら4軒の家は、すべて姓が異なっており、位牌祭祀で同席することはなかった。しかし、最も緊密な親族関係を形成していたのだった。

アブシバレーをしなくなった頃から曾祖母の存在が小さくなっていったような気がする。

ぼくは東京の大学に行っていたので、帰省するたびに曾祖母にあいさつに行くことにしていた。ところがある年に、曾祖母と言葉を交わすことができずにあいさつが終わったことがあった。曾祖母は標準語を使うことができず、ぼくはもう名護の言葉で会話することができなくなっていたからだ。

しかし、使用言語のすれ違いだけが曾祖母と曾孫との会話を不成立にさせたのだろうか。以前の曾祖母はそんなことに頓着せずに自由に喋り、ぼくも曾祖母の言っていることがなんとなくわかっていたのだ。

たぶん曾祖母は自信を失くしていたのだと思う。だからぼくに対しての違和や遠慮があり、コミュニケーションが成立しなくなっていたのだ。

ぼくには二人のあいだにわだかまる違和や遠慮を乗り越えるだけのコミュニケーション能力がなく、曾祖母にぎこちなさを味あわせてしまったのだ。

曾祖母の権威の失墜は、位牌祭祀が強化されていく時代風潮にともなうものだったといえる。

1972年の「祖国復帰」によって軍用地料は6倍から8倍に跳ね上がり、1975年の「海洋博覧会」によって、海岸近くの土地はリゾート予定地として天井知らずに地代が跳ね上がった。

突然降ってわいた土地バブルにより、土地の所有権をめぐる争いが各地で頻発した。そして土地所有権の正統性を証明するものとして、位牌祭祀が強化されていくのである。

曾祖母を頂点とする4家からなる母系親族集団は、曾祖母の権威の失墜とともに、ゆるやかに各家の敷居を高くしていった。そして曾祖母が亡くなり、父が亡くなった後で、ぼくははじめて、自分がこの母系親族集団に包まれていたことを知った。

失われて初めて、その存在に気づいたのだ。