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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

旅行の「旅」と出郷の「タビ」

作家の干刈あがた(1943-1992)は、両親が沖永良部島出身の人だった。東京生まれの彼女は、1963年(20歳)に初めて父母の故郷沖永良部島を訪れている。初対面の島の親族から、旅(タビ)という言葉をかけられる。それは、干刈が標準語として理解する「旅」とは、異なることを意味する言葉だった。

私は島言葉をはなすことはできないが、聞いてはわかる、と思っていた。東京在住者たちが話す島言葉はすべてわかった。けれど島の人たちが互いに話す早口の島言葉や、老人の島言葉は、よくわからなかった。船迎(ひなむけ)の人たちは私むけにはゆっくりと、なるべく標準語で話そうとするため変になってしまう、ぎこちない言葉で話しかけた。
その中で、何度も繰り返し出てくる「タビ」という言葉が、私の語感の「旅」とどうもぴったり重ならなかった。「タビはつらかったでしょう」というのは、七島灘を乗りこえる船旅のことかもしれないが、「タビの冬は寒いでしょう」とは、夏に来ている私への問いにしてはおかしい。
「あなたのお母さんはタビで何人子を生んだの。兄弟は何人ね」
「タビは人が多いから生活も大変でしょう。その点、島は呑気でいい」
「タビの子は肌が白いねえ」
「よくタビからお帰りになった」
どうやらタビというのは、単なる船旅とか旅立ちの旅だけではなく、島に対しての本土、本土での暮らし全体を指しているらしい。本土で二十数年暮らしてもそれは旅、そこで子を生んでもそれは旅の子、帰るべき地は島である。タビはそういう意味であるらしいことがわかった時、私の中で何かが揺れた。
干刈あがた『樹下の家族』)

 「船迎(ひなむけ)の人たち」というのは近しい親族を指す言葉のようだ。「船迎」の様子を干刈は次のように描写している。

サトウキビ畑のあいだの道に、灯りが一つちらちら揺れはじめた。それはしばらくは、近づいてくるのか遠ざかって行くのかわからなかったが、やがて家を囲んだ赤木のむこうをぐるっと回って、石垣の門から懐中電灯を持った人が入って来た。灯りは、また一つ、また一つとやって来た。八十過ぎと思われる老婆もやって来た。
人々はそれぞれ私にむかって自分の名を名乗り、間柄を説明すると、一様にチリ紙に小さく包んだ金包みを渡した。包みには鉛筆で「船迎」と書いてあったが、鉛筆と紙の強度の関係で、ひっかき破れていたりする。
船迎の人々は十人ほどで、叔父の一家と私とで車座に坐ると、そう広くない母屋の座敷はいっぱいになった。八十老婆は私ににじり寄ってくると手を取り、泣き泣き何かを言った。その言葉の一つ一つはわからなかったが、私は言葉の区切り区切りでうなずき返事した。なつかしいと言っているのだとか、死ぬ前に会えてよかったよと言っているのだ、ということが表情でわかったから。
(干刈同前)

この「船迎の人たち」からタビという言葉が出てくるのだ。沖永良部島の用法では、タビという言葉は、ンマリジマ(生まれ故郷)を離れて異郷の地に赴くことを意味する。そしてシマを何年離れていようが何十年離れていようが、いつかは旅先からシマに戻るものであり、異郷の地に定住するという概念は成立しない。

タビという言葉の用法は、沖永良部島だけではなく、奄美諸島から八重山諸島与那国島を含む沖縄全域にみられるもので、シマ社会の特徴をよく伝える言葉だといえる。

シマ社会の人びとにとって、ンマリジマを一歩離れるということは、人間が住む世界ではなく鬼や魔物が棲む異郷の地に足を踏み入れることを意味するものだった。ンマリジマだけが人間の住む世界だったのである。

ぼくも子どものころは、世界をそのように理解していたと思う。それは1960年代前半までのことであり、干刈あがたが初めて沖永良部島を訪れたときと同じ時代になる。

干刈あがたが「船迎の人たち」からかけられた「タビはつらかったでしょう」という言葉と同じニュアンスの感情を、文化人類学の文献から見つけることができる。文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)の『はるかなる視線Ⅰ』に次のようなエピソードがある。

ドイツの偉大な民族学者クルト・ウンケルは、生涯をブラジルのインディアンに捧げ、ニムエンダジュというインディアン名で知られているが、彼が文明開化の地に長期間滞在して原住民の村に戻ると、住民たちは、生きるに価する唯一の場所だと彼らが信じている場所を遠く離れて、ウンケルがどれほどひどい苦しみを味わったかを思い、涙にくれたという。他所の文化に対する極端なまでのこのような無関心は、それらの文化が自由にそして独自に存在し続けることを保証する一つの形であった。
(クロード・レヴィ=ストロース(三保元訳)『はるかなる視線Ⅰ』)

民族学者クルト・ウンケルはフィールド先のインディアンの部族で養子になり、部族の一員となる。

彼が部族の地を離れ、都市で本来の学者としての仕事に戻るとき、部族の人たちにとってそれは部族から未開の地(=都市)への旅を意味していた。

彼がその旅から帰省するごとに、部族の人たちは旅先での苦労をしのび、彼を迎えるとき「涙にくれた」のである。

レヴィ=ストロースは「他所の文化に対する極端なまでのこのような無関心は、それらの文化が自由にそして独自に存在し続けることを保証する一つの形であった」と指摘する。

他所の文化に対するこのような無関心さは、現代的な価値観からするなら閉鎖的と表現されるものでもある。しかし現代社会が他の文化や時代に対してもつ無関心さも、同様に閉鎖的といえるだろう。

インディアン部族の他所の文化に対する無関心さは、閉鎖的ということはできない。それは他の世界を遮断する拘束であり、その拘束の中で、「それらの文化が自由にそして独自に存在し続ける」ことが保証されるのである。

このような拘束は、沖永良部島やブラジルの部族社会がそのまま神話的時空にあったことを物語るものでもあるともいえる。もちろん、同じ条件にある奄美諸島から与那国までを含む島々や、世界の閉鎖的、あるいは停滞的とされる部族社会も同じだ。

他の社会から遮断された拘束の中で、神々は直接、シマ社会や部族社会と呼ばれる小さなコミュニティを訪れた。そして、神々と人間たちとの境界線がまだあいまいな状態のままで保存されているそのような時空こそが、「生きるに価する唯一の場所」(レヴィ=ストロース)だったのである。