rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

魂呼ばい

父親の死を看取ったのは20年ほど前のことだった。

父は癌であり、再発していた。手術は二度とも国立病院で行われた。ぼくも何度か夜の付き添いをしたが、病室内ではいつも何かの器具がガチャガチャ触れる金属音がしていた。

もう助からないことがわかってからは、父は国立病院での入院生活に苛立つようになってきた。自分は実験用のモルモットにすぎないのだと。

そこで近くの私立病院に転院させることにした。その私立病院では東棟と南棟にサンルームがあり、外の景色を眺めたり陽光を浴びることができるようになっていた。父は東棟に入室したので、車椅子でサンルームまで移動して、朝日を観察することができた。

東棟のサンルームからの景色は、名護湾のようだった。丘陵に囲われた湾があり、湾の奥には市街地があった。名護から60キロメートルほど離れた南の方に病院はあったのだが、サンルームから眺める光景は、父のンマリジマである東江(あがりえ)の森の上から眺める名護湾のようだった。

ンマリジマという言葉の語感を日本語に翻訳することはむつかしい。生まれ故郷というよりももっと狭い範囲を指す言葉であり、もっと深い宇宙的・神話的秩序を意味する言葉だからである。

転院してから父は、少しずつ穏やかになり、死に向かい始めていた。父が穏やかになったのにもう一つの理由があった。母の雇った付添婦が父の介護をするようになったのである。

それまで家族が交代で夜の付き添いをしていたのだが、それには限界があって、徹夜の介護はできるものではなかった。夜、確実に誰かが見守っていることが父を安心させたのかもしれない。その付添婦から「今夜あたりが危なさそうだ」という連絡を受けて、ぼくたちは病院に向かった。

病室には母と兄、ぼく、妹とそれぞれの家族がいた。そして父の近親の女性たちが集まっていた。ぼくたち家族は、死者に対する祈りの言葉を持っていなかった。死にゆく者の傍らで、見守ることだけがぼくたちにできることだった。

その沈黙を破ったのは、父の母方の叔母にあたる大叔母だった。臨終とともに大叔母は、悲痛な叫びのように、父の名を何度も繰り返して呼んだ。それは民俗学でいう「魂呼(たまよ)ばい」と呼ばれる鎮魂儀礼だった。『沖縄大百科事典』には次のような説明がなされている。

臨終にあたりその人から遊離したマブイ(魂)を呼び戻してよみがえらせようとする呪的儀礼。沖縄ではもっぱら死者の枕もとで死者の名前を3回大声で呼び号泣する。いわゆる死者を惜しむ情から出た鎮魂儀礼である。沖縄では日本全国に分布する、屋根の上に昇ったり、井戸の底をうかがったり、他界と思われる方を向いて遠ざかりゆく霊を呼び戻す招魂儀礼はおこなわれていない。
(名嘉真宜勝「魂呼ばい」『沖縄大百科事典』)

この「死者の枕もとで死者の名前を3回大声で呼び号泣する」という鎮魂儀礼を大叔母はおこなったのである。そのときぼくには、父の魂が、東江の森に飛んで帰って行く姿が見えたような気がした。

二度の大手術を受け、父の身体はボロボロの状態だった。その古びた傷だらけの身体を脱ぎ捨て、父の魂は火の玉のような状態になって、一瞬で東江の森に戻って行ったのだ。まるで子どものときの遊びの続きをしにいくように。

それは一瞬の幻視だった。この幻視があまりにも鮮やかだったので、いまだにぼくの記憶に焼き付いている。

文化人類学者のマリノウスキー(1884-1942)によると、パプア・ニューギニアに属するトロブリアンド諸島では、「老年は自然状態ではない」とみなされているということである。トロブリアンド島民にとって、死は若返りのためのプロセスに属するものであった。

トロブリアンド島民にとって老年は自然状態ではない。――老年は事故であり、災難なのだ。大昔のこと、人類が地下からはじめて現われた時、人間は随意にふるびたしわのよった皮膚を脱ぎすてて若返ることができた。あたかもそれはカニや蛇やトカゲがときどき古いからを脱いで新しい生活をはじめるのと同じなのだ。人間は不幸にしてこの術を失ってしまった。……しかしトウマ島ではこの幸福な霊魂たちはこの技術を記憶しつづけてきた。彼らは年取ったとなると、たるんでしわのよった皮膚を脱ぎ捨てそしてやわらかな体、黒い髪の毛をして精力に満ち満ちて現われてくる。彼らは愛と喜びにみちた青春を永遠にくり返すのである。
マリノウスキー(泉靖一他訳)『未開人の性生活』

トウマ島というのは、沖合の無人島で、死後の霊が住むところとされている島だ。父親の霊が幼児の姿になってンマリジマの森に帰るというぼくの幻視も、トロブリアンド島民の世界観とさほど変わらない世界観から来たのかもしれない。