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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

真に迫る悪を描いた写楽

日本の芸術の生成に関して、国文学者・民俗学者であった折口信夫(1887-1953)は、「ごろつき」と呼ばれるアウトローたちの関与が大きかったと述べている。

無頼漢(ゴロツキ)などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。
(「ごろつきの話」中公文庫『折口信夫全集第三巻』)

 折口のいう「ごろつき」の範囲は広く、巡遊する下級宗教家や芸能者たちがその主流をなすものたちであり、武士などもそれに含まれる。

諸方の豪族の家々の子弟のうち、総領の土地を貰ふことの出来なかつたもの、乃至は、戦争に負けて土地を奪はれたものなどが、諸国に新しい土地を求めようとして、彷徨した。……後世の「武士」は、実は宛て字である。「ぶし」の語原はこれらの野ぶし・山ぶしにあるらしい。(同前)

 歌舞伎もこの「ごろつき」の中から生まれ出た芸術であった。

かぶくとはあばれる事であつた。かぶき者・かぶき衆とは、異風をしてあばれ廻つた連衆のことである。後には、あぶれ者など言ふ語をさへ生む様になつた程で、もと/\彼等はごろつきだつたのである。(同前)

歌舞伎役者は、ごろつきであり、かぶき暴れる者のイメージを舞台化する。浮世絵では、歌舞伎役者を描く役者絵が、大きなシェアを占めていた。スターのブロマイドだったのである。

この役者絵で登場し、わずか10カ月ほどの活動で歴史上から姿を消してしまったのが東洲斎写楽であった。写楽は、寛政6 (1794) 年5月頃から翌年2月頃までに、 140種前後の役者似顔絵を描いた。きわめて短い活動期間であるし、浮世絵を描いたこと以外は何も知られていない。

寛政6 年5月に描かれたのが、『市川鰕蔵の竹村定之進』(東京国立博物館蔵)である。大きな表情と油断のならない神経の細やかな指先の動きで、歌舞伎者がもともとは「ごろつき」だったことが存分に表現されている。

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 歌舞伎には多くの悪人が登場する。悪人が脇役かというとそういうわけでもない。歌舞伎では極悪非道な悪人でも、芝居の中心人物の役割を果たすことが多い。折口は、歌舞伎が「ごろつき」から発生した芸能であると言った。「ごろつき」は歌舞伎のルーツであったのである。そして江戸の町民たちも、この悪人たちを愛してやまなかった。

このような「悪」から発生するのが、日本的な美の特徴だといえるだろう。日本には、儒教キリスト教のような絶対的な正義は存在しないといえる。西欧に「悪の芸術」があったにせよ、それはキリスト教という絶対的正義の影としての悪なのである。日本の悪には影は存在しない。「悪」を絶対的悪とする視点が欠けているのである。

次の絵は、『大谷鬼次の奴江戸兵衛』(東京国立博物館蔵)である。今回引用する写楽の絵は、すべて寛政6 年5月に描かれたものだ。活動期間が短かったので、作品を選ぶと、どうしても同時期のものに集中してしまう。この絵はいかにも悪人めかしている。両手を思い切り広げて相手を脅しているところだ。

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 三枚目は、『尾上松助の松下造酒之進』(ボストン美術館蔵)だ。心を病んでいる様がよく描かれている。その表情は、「現代的」だともいえるだろう。

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 最後が、『三世瀬川菊之丞の田辺文蔵妻おしず』(山口県立萩美術館・浦上記念館蔵)だ。浪人した夫を支える病身の妻という役どころらしい。紫の鉢巻きは病人を表わすという舞台上の約束事であるが、この数少ない記号で、見事に役どころを描いているといえる。

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この腕のよさが災いした。歌舞伎や落語などといった日本の伝統芸能では、襲名が行われる。肉体は変われども、魂は不変であるという見方によるものである。そのためには、襲名する名前を超えた存在になってはならなかった。襲名によって魂は連続性を保ち、その連続性のゆえに、逆に現存する個人の個性はきわだつのである。

写楽の腕のよさは、この襲名の連続性を断ち切るほどのものだったといってよい。そのためわずか10カ月という活動期間で、歴史の表面から姿を消してしまったのだといえる。悪の現存性に魅入られて、真に迫ってしまったので、時代に受け入れられなかった。そして、写楽自身にとっても、描くことが刹那的になってしまい、連続性を喪失してしまったといえるのではないだろうか。