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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ユダが売り渡したイエスの値段

経済人類学者のカール・ポランニー(1886-1964)によると、古代社会において、価格は変動するものではなかったということである。ポランニーは、ユダによるイエスの売買を、価格が固定されていた例に挙げる。

新約聖書』によると、イエス売買の値段は次のようなものだった。

時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
日本聖書協会「マタイによる福音書」第26章14-15)


ポランニーはこの「銀貨三十枚」という値段が奴隷一人の値段に相当する金額であるといい、その金額はハンムラビ法典(推定紀元前1750年バビロニアの法典)の時代からそれほど変化していないのだという。

ヘレニズム時代の市場価格には、それに先行した楔形文字文化の再配分的な等価から生まれたことを示す証拠が豊富にみられる。ユダがイエスを裏切るために一人の男として受け取った銀三十枚は、それより約千七百年前のハムラビ法典に定められていた奴隷一人という等価と近い変形であった。
(玉野井芳郎ほか編訳『経済の文明史』)


ヘレニズムというのは古代ギリシア古代ローマローマ帝国)時代を指す言葉だが、イエス・キリストの活動した時代(ローマ帝国時代)になっても、奴隷の値段は、1700年前とほぼ等しかったのだ。

このように物の値段が需要供給に応じて変化するものではない場合、ぼくたちの価値観は金額によって表現することが可能となる。ユダにとって「銀貨三十枚」は、救世主を裏切り、売り渡す値段だったのだが、ユダヤ教の祭司長たちにとっては、奴隷一人の値段にすぎなかったのである。

次の絵は、レンブラント(1606-1669)が描いた『銀貨30枚を返却するユダ』(1629年)である。

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ここに描かれるユダは極悪非道な悪魔的人間ではなく、身なりも貧しげで、激しく後悔している人間である。ところが画面左から射す光は、律法という書物の表を照らす。この律法に射す光によって、イエスを奴隷売買と同じように扱った祭司長たちの行為は正当化される。ところがレンブラントは、画面右の暗闇の階段から祭司長たちのように裕福そうな人間が苦しげに階段を登る姿を付け加える。このような姿を加えることによって、レンブラントは祭司長たちの正当性を否定する。

律法の光の射さない闇の階段を描くことによって、律法の光の前で悔い改めるユダこそが、キリスト(救世主)に最も近い存在であるということになる。レンブラントの魔術である。しかしその魔術が有効になるためには、「銀貨三十枚」の値段が表わすものが確定していなければならない。「銀貨三十枚」の値段が不動であることによって、人間の哀しみをめぐる壮大なドラマが展開されるのである。

ぼくたちの時代に、不動の価値を表わすものはない。ヒロシマナガサキ沖縄戦、そして満州からの悲惨な引き揚げ、そうした経験のすべてを表わす憲法9条でさえ、解釈だけで自由に変更されてしまう。そのような世界では、人間の生死でさえも「銀貨三十枚」よりも軽いものになってしまうだろう。ぼくたちは悲劇を生きることができなくなり、誰かの仕組んだ喜劇に組み込まれてしまうことになるのだ。