rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

チョンダラー(京太郎)――イフーナムン(異風な者)

エイサーには道化役のチョンダラーが付きものである。チョンダラーとは京太郎の意味で、もともとは門付け芸人のする簡単な人形芝居のことを指していたらしいが、それが人形をする演者のことも指すようになったものである。

チョンダラーのコスチュームは地域によって異なり、女装したり赤褌(ふんどし)を長々と垂らしたりなどする。共通するのは、顔を白粉(おしろい)で塗りたくっていることである。歌舞伎役者、芸者、花嫁など、特別な人が特別な日に白粉で厚化粧するように、白粉の厚化粧は、その人が普通の人ではないことを表わすものだった。チョンダラーは普通の日の普通の人ではなく、日常生活の枠からはみ出した特別な存在――異様な存在――、すなわち、イフーナムン(異風な者)なのである。

チョンダラーという名称は統一されたものではなく、地域によって若干異なる。ぐしけん かなめ「エイサーアンケート集約」(1990年)によると、次のような名称が見られる。

名護市安和ではキジムナー(いたずら好きな木の精霊)、
金武町金武ではワクヤー(からかう者)、
うるま市石川三原ではメーモヤー(前舞いをする者)、
沖縄市登川では赤サナジャー(赤褌をする者)、
北谷町栄口ではサナジャー(褌をする者)、
同町桃原ではチョーギナー(狂言をする者)、
宜野湾市普天間三区ではトックリカタミヤー(徳利を担ぐ者)などと呼ぶ。

同アンケートによらないものに、宜野湾市伊佐のサンダー(三郎)があり、エイサーのメーモーイ(前舞い)にサンダー踊りが披露される。
うるま市勝連平敷屋ではナカワチという。


道化は、与勝半島などのように、十数人から成る道化だけのグループを形成し、それ自体で狂言のような芸能をおこなうところもあるが、エイサーの補助的な役割――エイサーに景気づけをする、観客を笑わせる、何らかの事故が起きないように気を配るなど――に徹するところもある。いずれの場合でも、エイサーのメインとなるのは、太鼓や手踊りで踊る青年男女であり、道化は補助的な役割を果たすものとされている。

このようにエイサーの補助的な役割を果たすものと見られる道化だが、エイサーのルーツはチョンダラーと呼ばれる道化にある。

八重瀬町東風平のチョンダラー
写真は八重瀬町東風平青年会エイサーのチョンダラー。

チョンダラーは別名でニンブチャー(念仏者)とも呼ばれていた。中世日本から渡来した半俗半僧の僧侶たちで、芸能者であるとともに下級僧侶でもあった。日常的には門付け芸能として人形劇などを上演し、チョンダラーと呼ばれていた。葬式や法事があるときには、請われて念仏を唱え、ニンブチャーと呼ばれていた。彼らの集落はアンニャ(行脚)村といい、那覇市首里久場川町の東側にあったとされる。

彼らはいつごろ沖縄に渡ってきたのだろうか。
日本民俗学の創始者・柳田國男(1875-1962)は、アンジャ(行者)という半俗半僧の下級僧侶が文献に登場するのは15世紀以降だとし、それをアンニャ村のアンニャという言葉と結びつけて、15世紀以降の渡航だろうと推測している。

行者(アンジャ)と称する妻帯の毛坊主は、芝の増上寺に従属した三戸の田中氏が有名であった。……古くは寺賤とも名づけた寺々の世襲の下役人のごとき者を、ある時代にアンジャと呼ぶことが流行したのである。首里のアンニャが海を越えての移住も、これに由っておよそその年代を算えることが出来よう。
柳田國男「小序」1924年宮良当壮『沖縄の人形芝居』1925年)


国文学者・民俗学者であった折口信夫(1887-1953)は、アンジャの渡来は琉球王国島津藩に進攻される(1609年)以前だろうとみる。

琉球古典舞踊や琉球古典音楽に〕大きな影響を与へたものは、千秋万歳を祝する芸能の渡来である。日本(ヤマト)の為政者や、記録家の知らぬ間に、幾度か、七島の海中(トナカ)の波を凌いで来た、下級宗教家の業蹟が、茲に見えるのである。
念仏宗の地盤の、既に出来てゐた上に、袋中(タイチユウ)の渡海があつたものと見てよい。
折口信夫「組踊り以前」1929年)


袋中という僧侶は、1603年に渡来し、3年間沖縄で念仏を布教したらしい。その袋中の渡来の前に、すでに無名のアンジャたちが渡来して、念仏宗の地盤を築いていたとみるのである。

柳田と折口の見方を重ね合わせると、半俗半僧であった下級僧侶であるアンジャ(ニンブチャー=チョンダラー)たちが沖縄に渡来したのは、15世紀から16世紀にかけての頃だといえるだろう。その時代は、琉球王国が成立(1429年)し、まだ島津藩の支配を受けていない時代、つまり琉球王国の全盛時代にあたる。

ニンブチャー=チョンダラーと呼ばれるものたちは、イフーナムン(異風な者)であった。それは中世日本を漂泊跋扈した、「異類異形(いるいいぎょう)」と呼ばれた者たちの一つであった。

異類異形とは、人間でないことを意味する言葉であった。人間でないということは、蔑視の対象になるとともに、聖なるものとして位置づけられるものでもあった。聖なるものとして、彼らは中世日本を自由に漂泊跋扈し、全国的なネットワークを形成した。

異類異形の人々
『融通念仏縁起絵本』(清凉寺本、15世紀)より、「異類異形」の人々。

この異類異形の中から、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走る「婆娑羅(ばさら)」や「歌舞伎(かぶき)」という風潮が流行することになる。沖縄のニンブチャー=チョンダラーたちも、そのようなイフーナムン(異風な者)の流れを汲むものであった。

出雲阿国
『歌舞伎図巻』(徳川黎明会、17世紀)より、侍の衣装をした出雲阿国。

下級僧侶であったニンブチャー=チョンダラーたちの唱える念仏はどのようなものだったのか。彼らの唱えた念仏は、親孝行が主なテーマだった(宮良当壮『沖縄の人形芝居』による)。

たとえば、「継親念仏(ママウヤニンブツ)」では、幼い時に母を亡くした子が、七月七夕の中の十日に後生の門が開き、母親の霊と会え、亡き母親は子どもに供養を頼むという物語であり、歌は43番まである。

「長者の流れ(チョンジョンナガリー)」では、七たび栄えてもなお滅び尽くさぬという長者の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、今は命も絶え絶えなので、子どもを殺してその血を飲ませてくれと孝心を試す。長男、次男の嫁は拒否するが、三男の嫁は承諾する。死んだ子の死骸を埋めるために土を掘ると、そこから金銀財宝が湧き出してくるという物語で、歌は63番まである。

このような長大な念仏歌は現在ほとんど歌われることはなく、エイサーのなかでそのさわりの部分だけが歌われる。たとえば「仲順流り節」では、一番で「継親念仏」のさわりが歌われ、二三番で「長者の流れ」のさわりの部分が歌われる。この一曲を歌うことにより、長大な二つの念仏歌を歌ったことになるのである。

仲順流り節
一. 七月七夕 中ぬ十日
 ※エイサーエイサー ヒヤルガエイサー スリサーサー スリ (囃子。以下略)
  二才達や揃とてぃ 遊ぶさや
二. 仲順流りや 七流り
  黄金ぬはやしん 七はやし
三. 仲順大主や 果報な者
  産し子や三人 産し出じゃし


なぜ念仏歌は短縮化されるのか。それはエイサーの主体が、ニンブチャー=チョンダラーからシマの青年たちに変わったことによるものだろう。大正時代から昭和の戦前期にかけて、ニンブチャーによる念仏歌は急速に衰退していく。代わりに歌垣の求愛歌であるモーアシビの歌やその当時流行していた雑(ぞう)踊りの歌が、エイサーのメインを占めることになっていく。

ニンブチャー=チョンダラーたちの念仏の痕跡として、短縮化された念仏歌は残り、異類異形の芸能の痕跡として、道化たちが残ることになったといえるだろう。それがチョンダラーである。