読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

国頭村安田(あだ)紀行(1)

7月19日午前10時15分、宜野湾のマンションを出る。目的地は沖縄本島東海岸にある国頭村の安田(あだ)の集落。一泊二日の小旅行の予定だ。宜野湾から安田までは、七、八十キロメートルくらいの距離がある。客体化された距離は七、八十キロメートルだが、通時的に言うと現代から古代社会へワープすることであり、共時的に言うと米軍基地の周辺に誕生した連結都市圏から沖縄のシマ社会の構造の残った集落への移動ということになる。沖縄の言語における「シマ」という言葉は、集落を意味する語で、島という意味を持つものではない。

沖縄では均質に時間が流れているわけではない。時間には三種類の時間がある。

一つ目が、シマ社会に流れる基底的な文化構造としての時間意識だ。それはたやすく神話時代につながる時間意識だ。

二つ目は米軍基地によって形成された時間意識だ。それはアメリカ合衆国(以下、アメリカ)のミドルクラスの生活をそのまま持ち込んだ、郊外の庭付き住宅のある米軍基地と、それと対比的な雑然とした沖縄の民衆層の住宅がおりなすコントラストの中で形成される時間意識だ。基地の中にある郊外の整然としたミドルクラスの住宅街と基地の外にある無秩序から発生した雑然とした住宅街のコントラスト、その中で形成される植民地的なけだるい時間意識。

三つ目はリゾートホテルによって形成される時間意識だ。日本の大手企業によるリゾートホテルの建設によって、沖縄在来のリゾートホテルはほとんど壊滅した。つまり沖縄主体のホストはほとんど姿を消したのだ。時間は日本のツーリストによって形成される。日本と地続きの時間が、リゾートホテルの林立によって形成されることになる。そのように時間意識が日本のツーリストに支配されるようになって、沖縄記号にあふれる商品が大量に出現することになる。時間意識を均質化することによって、沖縄を南国沖縄として差異化することが可能となるのだ。

沖縄を移動するときは、この三つの時間意識をくぐりぬけていかなければならないので、短い距離に逆比例するかのように、通時的共時的な時間の歪みを体感することになる。

国頭村に行くには三つのコースが考えられる。一つ目は西海岸の国道58号線をひたすら北上し、与那安田横断道路で安田に向かうというコースだ。この場合、嘉手納までの広大な米軍基地を見ながらの北上となり、米軍基地が見えなくなった恩納村あたりから名護市までリゾートホテルの林立をやり過ごさなければならない。

それがいやなら自動車道路を使うというのが二つ目のコースとなる。これを使うと米軍基地の存在感やリゾートホテルの林立に悩まされることもなく名護市まで行ける。その代わり人間の生活も視えないので、名護までの移動に費やされる時間は、無意味な空白の時間帯となる。

三つの目のコースが東周りのコースだ。このコースは、リゾートホテルの林立を目にすることはないが、米軍基地の存在を常に感じ続けなければならないコースだ。

f:id:rapanse:20150905110705j:plain

 

時間的に短いのは二番目の自動車道を使うコースだが、ぼくは時間のもっともかかる三番目の東周りのコースを採った。通時的共時的古代に移動するためには、移動のための体感時間が必要だとおもわれたからだ。それともう一つ、辺野古新基地の建設の様子を確認したいという思いもあった。

宜野湾を出発し、国道330号線(サンサンマル)で長田交差点から普天間交差点に向かう。普天間基地のフェンスを華々しく飾り立てていた、異議申し立ての赤やピンクのリボンが綺麗に取り去られている。こういうところで国の仕事の迅速さ・丁寧さを見ることができる。

嘉手納基地を含めてそれ以南の米軍基地には、共通した特徴がある。それは集落や耕作地などの人間的な生活の場から住民を排除して、そこに基地が造られたということだ。嘉手納基地には七つの集落があったとされる。嘉手納基地と同じように、キャンプ瑞慶覧(ずけらん)、キャンプ桑江、普天間飛行場、キャンプ・キンザー(牧港補給地区)も多くの集落を排除して建設されたものだ。

米軍の銃剣とブルドーザーによって住まいと耕作地を奪われた住民は、集落の外れにあった墓地に住まいを構えることになる。米軍が欲しかったのは、広大な飛行場が造れ、芝生のある庭付きの郊外住宅街を造成できる平坦な土地であり、そのような土地は、島嶼的地形の沖縄では、集落の密集地や広々とした耕作地以外にはなかった。米軍は耕作に適さない傾斜地にある墓地には関心を示さなかった。そのため広大な米軍基地の周辺に広大な墓地地帯が残されることになり、その墓地地帯に集落地・耕作地を奪われた住民たちが集住することになる。

基地の周辺の新たにできた集住地に、農村の余剰人口が流れ込んでくることになる。戦前の沖縄県人口は50万人台で推移していたが、日本(ヤマトゥ)の工業地帯や南洋諸島満州、台湾、フィリピンなどの日本の占領地に、少なく見積もっても20万人程度の沖縄系住民が移動して住んでいたとされる――日本の占領地以外の海外移民は除かれた数字だ。戦前の沖縄社会は、農村の余剰人口が極端に多い地域だった。

県外に流出していた人口が、敗戦とともに県内に戻ってくることになる。なおかつ米軍の占領支配下に置かれていた沖縄では、日本への渡航制限が行なわれ、戦前ならば日本の大都市へ移動したであろう人口は、行き先を失って基地の周辺に移動することになる。

沖縄で米軍基地の建設が集中的に進められるのは1950年代のことで、その1950年代というきわめて短期間のうちに、基地を取り囲んで巨大な都市圏が形成されることになる。この巨大な都市圏には大きな特徴があった。それは広大な墓地地帯にできた出自の違う無数の小さなシマ社会である。農村から都市への人口移動が、日本の場合独身者を中心に行われたのに対して、沖縄では家族・親族単位での人口移動が多かった。そのため基層文化のシマ社会の持つ互酬性が、そのまま都市に持ちこされることになったのである。巨大都市圏の中に無数にできたこのようなシマ社会を「第二のシマ社会」と呼ぶこともできるだろう。

戦後の農村から都市への人口の移動期に、日本ではカイシャ(会社)がムラの機能を果たし、「第二のムラ」となった。そして都市的住民は「第二のムラ」のムラビトとなった。沖縄では日本におけるカイシャのような、農村の住民を都市住民に変換するシステムを持つことはなかった。1950年代に出現した巨大都市の中で、シマから出離したシマンチュ(シマの人)は小さなシマ社会を形成し、出自のシマとへその緒でつながる「第二のシマ社会」を形成していった。

東周りのコースは、この「第二のシマ社会」の残存している姿を見ながら北上することになる。普天間飛行場を過ぎ、キャンプ瑞慶覧、キャンプ桑江を過ぎると、嘉手納基地の南端にあたる基地の街「コザ」に入る。現在は沖縄市に含まれるコザは、1974年までコザ市という市だった。戦前の純農村地帯に、戦後、奄美諸島から与那国島出身までの人たちが集住し、自由度の高い個人主義とシマ的互酬性の高い、新たな都市的コミュニティが形成されていた。

嘉手納基地の東側に沿って胡屋(ごや)十字路を過ぎ、コザ十字路から左折して国道329号線に入る。このあたりは木造瓦葺きの家が多い。1950年代から60年代まで、沖縄の住居は茅葺きの家が多く、木造瓦葺きは社会的成功者の証だった。

しかし胡屋十字路やコザ十字路界隈に、かつてのにぎわいはない。基地の街が栄えたのは、ベトナム戦争(1960-1975)の頃だった。1973年にアメリカは軍隊のベトナムからの撤退を決定するともに、選抜徴兵登録制度に基づく徴兵を停止した。徴兵制度の停止により、アメリカ軍の中で、ミドルクラスやアッパーミドルクラスの子弟の占める割合が低下してくる。志願兵たちはアメリカの市民権を得たい移民や低所得層で占められていくことになる。

このような米兵の下層階級化に、ドル・ショックが加わった。アメリカは1971年、通貨であるドルと金との交換停止などを柱とするドル防衛策を発表し、その結果、ドルの価値が急速に下落していった。1960年代の沖縄では、1000ドルで家が建つといわれていた。現在の1ドル≒120円の相場に換算すると12万円にすぎない。かつては2ドル(≒240円)もっているとビーチで一日遊ぶことができた。

つまり、米兵相手の商売は1970年代から成立しないものになりつつあったのだ。米兵の社会階層自体が下流化し、しかもドルの値打ちが下がったのである。しかし広大な米軍基地が残されたため、産業転換は遅くなることになった。基地は経済的には無価値なものに陳腐化したとはいえ、その基地の返還は遅々として進まなかったからである。

329号線に沿って、うるま市金武町宜野座村と北上していくと、名護市辺野古キャンプ・シュワブに出会う。辺野古はコザなどと同じく基地の街であり、かつてはコザの街と同じような経済的地盤沈下を起こしていた。ところが辺野古への新基地建設が動き出してから、高等専門学校が設置され、経済特区も設定されることになり、国の政策によるエリート層が同居することになった。そのため、車窓から風景を見ているだけでも、植民地的なけだるい時間意識と日本のエリート層の高速的な時間意識が重なることになる。その時間意識の歪みが、風景もシュールなものに歪めてしまう。