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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

噛む、噛まない――沖縄の綱引きに見るバイオレンスの昇華

「精神の生態学」を提唱したグレゴリー・ベイトソン(1904 – 1980、アメリカ)は、人間に安心感を与え、他者との友愛関係が築かれるのは、前言語的なレベルでの精神プロセスによるものだという指摘をした。

 

前言語的なレベルの精神プロセスというのは、動物、言語を獲得する以前の人間の赤ん坊、そして、言語を獲得して以降の人間の夢の中での体験などをいう。つまり、言語を獲得する以前の基底的な精神プロセスのことだ。言語以前のレベルとは動物と同じ精神プロセスにあることをいい、それを基底的な精神プロセスだとするのである。「前言語的なレベルの精神プロセス」という概念を提示することによって、ベイトソン精神分析における無意識という概念を、病的なものの分析にとどまるものではなく、人間のコミュニケーションの根源に据えることになる。

 

動物や人間の赤ん坊は、「オレはオマエを噛まない」、「オレはアイツを怖れない」という感情をストレートに相手に伝えることはできない。まず相手を噛んでみて、そして、――これが重要な点であるが――、本気で噛まないことによって、友愛の情を相手に伝えるのである。

 

夢の中でも、悪い夢にうなされているようなときは、逆に安心感を得るためにうなされていることが多い。目覚める瞬間に「夢でよかった」と思うからだ。夢でうなされたことが現実のことではないと知ることによって、現実の心の不安感を安定させることになる(佐藤良明訳『精神の生態学』より要約)。

 

沖縄の年中行事の一つである綱引きにも、ベイトソンが言うところの前言語的レベルでの精神プロセスをみることができる。綱引きは意図的にバイオレンス(激しさ、暴力)を煽りたてる年中行事であるといえる。つまり、噛むという行為、あるいは噛むために牙をむき出すという行為を、意図的に現出させるのである。そして煽りたてられたバイオレンスが本物の戦いや喧嘩にまで発展しないことによって、相手の噛まない意志を前言語的なレベルで納得するのである。

 

この前言語的なレベルでの納得により、バイオレンスは暴力ではなく、様式美――茶道、相撲、空手などの多くの様式美は、バイオレンスを内に秘めているからこそ、極限の美にまで到達することが可能なのである――に昇華されることになり、それと同時に、コミュニティに前言語的レベルでの深い一体感をもたらせることになる。

 

綱引きは、シマを二つに分かち、男綱の組と女綱の組を形成するところから始まる。そして二つのグループが出来たところから、コミュニティ内における対立感情が煽られていく。一時的に対立感情を高揚させて行くのである。大正・昭和期の郷土史家であった比嘉春潮1883-1977)は、出身地だった西原間切翁長村(現、西原町翁長)の綱引きの様子を次のように伝えている。

 

一つの道路を境として部落は上下に分かれた。上(うへ)は男綱(をーんな)、下(しも)は女綱(みーんな)を作り、之を一つに寄せて引くのであつた。期日の三四日前になると「藁乞(わらく)ひ」が始つた。十四五歳を頭に十一二歳迄の男の児達が、銅鑼を叩き「藁乞ら、藁乞ら」と叫んで、夫々の組の各戸を廻つて藁を集めるのである。一戸一束から六束位迄で、其家の財産や耕地の多少によつて決まつていた。綱引は「村御願(むらおぐわん)」だからどの家でも快く藁を出した。集めた藁は綱をつくる広場に積上げられた。

「藁乞ひ」が始まると部落(むら)の人々は平常と違つた心理状態になつた。上(うへ)と下(しも)とはお互に競争の相手として見た。この気持は特に子供達に於て甚だしく、学校に行くのでもこの数日間はそれぞれ組の者ばかりでかたまつて歩いた。牧草を刈りに行つても組が別だと一緒にならなかつた。下の者と上の者が一緒に歩るくか、親しさうに話してでもゐると、それぞれの組の者から裏切者であるかの如く見られた。尤もこの気持は綱引が済むと直ぐに消えたけれど。(「翁長旧事談」1933~34年)

 

「翁長旧事談」によると、コミュニティ内での対立感情は、綱引きの三四日前から急速に高まり、「綱引が済むと直ぐに消え」ていくものだった。ベイトソンは、前言語的レベル(=基底的レベルで)で噛まない意志を伝えるためには、まず噛んでみることが必要だとする。「藁乞ひ」から始まる対立感情の亢進は、噛む姿勢の形成だといえる。

 

綱引きはその準備期間も含めて、喧噪に終始する。西原町翁長の綱引きは、少女たちの乱舞から準備期間が開始された。

 

「藁乞ひ」のはじまる頃から、小娘達も毎晩組々で集つて、所謂「綱引舞(つなひきまひ)」をした。十二三人のものが輪をつくつて小皷を叩いて唄を謡ふ。余のものは輪の中に這入つて、同様唄を謡ひつつ踊る。踊るといつても、両手を頭上で曲げたり伸ばしたりするだけで、それぞれ唄のリズムに合はしてはゐるが、全体としては何等統一もない乱舞である。聞いてゐても歌詞など一寸判らぬ位喧々囂々(けんけんごうごう)たるものであつた。それでも娘達はすつかり亢奮して幾時間も斯ふいふことを続けた。集まつて踊つてゐることそのことが嬉しいのであつた。(「翁長旧事談」)

 

この乱舞はシマ社会の静寂を破るものだった。シマ社会には歌舞楽曲のタブーの時期があった。それは、栽培植物の花が咲き、果実や穀物が熟して稔るまでのあいだであった。その静寂を少女たちの乱舞が破り、シマは突然、喧噪の時期に突入するのである。

 

大豆や稲が花を持ち始めてから熟するまで、農村では、「鳴物(ないもの)は法度(はつと)」といふて、皷や銅鑼の如きは勿論のこと伐木や石切りの如き激しい物音は「法度」であり、三味線さへ遠慮された。「作物(もづくり)を驚かしてはいけない」といふのであつた。これを犯すと神の「あらび」(怒)で実のりがわるいとされた。この静寂を最初に破るのは稲干場に於ける夜番の吹く法螺貝であり、引続いてはこの綱引前の幾晩かの少女たちの皷の音であつた。夏の夜に響くこの久振りの「物音」は部落の人々に一種の深い感興を与へるものであつた。(「翁長旧事談」)

 

綱引きの喧騒は、当日にはシマ全体を包み込む。中庸を保つものはいず、シマ全体が敵味方に分かれて殺気立つのである。少女たちの乱舞は、やがて、シマの女性たち全員の乱舞に変わる。

 

当日の昼過ぎになると、娘達ばかりでなく、若い女から年増や老婆まで出て来て、この「綱引舞」の輪は段々大きくなつた。衣服も今日は晴着にかへ、若い女は赤や紫、年増は黒や紺の鉢巻(サーヂ)をした。(「翁長旧事談」)

 

若者たちが綱のカニチ(綱の頭部分)を六尺棒で頭上に掲げ、綱引き場まで練り歩いてくる。銅鑼と鉦の音、法螺貝、掛声が入り混じり、コミュニティ全体が喧騒に包まれる。

 

愈々綱引の時刻(大抵満潮の時刻を撰んだ)になると部落の住民は一人残らず綱引場に出て来た。若者達は鉢巻をなし、六尺棒を携え、袖上げをして集まつた(「袖上げ」は手拭を両袖から通して背中で結び、袖を掲げるもので一種のたすき掛)。綱の頭即ちカニチの方を二三十人の者が棒で差し上げ、余の部には老若男女が取り付き、「鐘打(かねうち)」即ち銅鑼叩きの取る拍子に従ひ、ハリヨー、ハーイヤと掛声をしてカニチ口(ぐち)(引く際に両方の綱を継ぐ所)近くに寄せて行く。綱を寄せる時は銅鑼の外、鉦子(しょうご)、法螺貝の鳴物で気勢を添え、又甘蔗殻を束ねた炬火を持つた女達と、棒を携えた中老人、銅鑼を叩く男等が、絶えず前後を駆け廻つて、一同を指揮し皷舞する。(「翁長旧事談」)

 

双方の喧騒をきわめる中で、女綱と男綱がカニチ棒で合体される。この合体と同時に綱が引かれるのである。しかし、綱は急いで合体してはならなかった。

 

カニチ口には、カニチ人数といふ屈強の男等が数人径七八寸長さ二間位のカニチ棒を携えて扣(ひか)へてゐる。継ぐにはじらす様にのろのろとやる。さつさとつないで仕舞つては「御願」にならないといふことであつた。やつと女綱のカニチの中に男綱のカニチを入れると、少し下げて来てカニチ棒を貫く。(「翁長旧事談」)

 

神の来臨とコミュニティの一体化は、同一のことを意味していた。神の来臨を招くためにはコミュニティの一体化がなされなければならず、コミュニティの一体化を果たすために、女綱方と男綱方の双方は、牙をむき出して相手に噛みつく姿勢を見せなければならなかった。蛮性が激しければ激しいほど、それが実際の暴力に至らない場合には、コミュニティの成員たちは、前言語的(=基底的)レベルでの精神的な一体感を持つことができるのだった。

 

女綱と男綱が合体したときは、神が来臨した瞬間であった。この神来臨の瞬間に、人々はドリーム・タイムを経験しなければならなかった。ドリーム・タイムとは神話時代の時空である。神話時代の時空を生きるために、人々は前言語的なレベルでの精神プロセスが必要とされたのである。

 

神は一回目の勝負でシマに来臨し、異界=他界のサチをシマ社会にもたらせた。女綱男綱どちらが勝とうと、神のサチはシマにもたらされることになっていた。重要なのは、勝負における殺気だった。神の来臨を果たした後には、殺気は「遊び」に変わらなければならなかった。そのため勝負が終わると、ガーエーという示威行動が行なわれた。ガーエーとは、鬨(とき)の声とか凱歌とかいう意味である。

 

ガーエーを行うときは、両手の握り拳を頭上高く差上げて、渦をなして敵方に躍り込み、押し合い揉み合いして威勢を示すことが多かった。両手の握り拳を頭上高く差上げるのは、これが本物の戦闘ではなく、「戦闘ごっこ」を意思表示するものだった。本気で噛む気のないことを意思表示するものだった。

 

戦前の那覇大綱引きでは、ガーエーのことを「戦花遊び(イクサハナアシビ)」と呼んでいた。戦(いくさ)であるとともに、華やかな遊びでもあったのである。郷土研究者で歌人であった島袋全発(1888-1953)によると、1872(明治5)年当時の「戦花遊び」の模様は次のようなものだったという。

 

口碑によれば、通堂(とんどう)一帯の民家の石垣は、石塊(いしころ)を武器とするために崩されていたという。祖母の話によれば、綱引きの翌日、当時、嬰児の父を背負うて西の十文字の門を出ると、眼ばかり光る真ッ黒い男が六尺棒を携えて、突然走ってきた。気の弱い当時十八歳の祖母はアッと叫んで尻餅をつく、背中の児は泣き立てる。すると件(くだん)の男はいきなりカラカラと白い歯を剥いて笑い出した。それが祖父の叔父に当る西村次男島袋筑登之(ちくどぅん)ということがやっとわかったが、腰をぬかした祖母は、暫くは起てなかったという。彼らは鍋墨を顔に塗り、六尺棒やヤチブクという竹槍を提げて勢揃いするところであった。

「まァ叔父さん、どうしました?」

という意味を訊ねると、

「軍(いくさ)の初まったも御存知ないか。」

と叱って、また走り出すのであった。(『那覇変遷記』1978年)

 

那覇市史資料篇第2巻中の7那覇の民俗』(1979年)によると、石合戦は死傷者がでるほど殺気だったものだった。戦前の那覇は、ガーエーする若者たちを軍隊に見立てていた。

 

総じて久米村(くにんだ)の行列は乱闘の心持ちだといわれ、両方の支度、出発し、遠近に発砲が交わされ、綱引き気分のいやがうえに緊張する際、支度をかこんで進軍するものまた久米村のムーチャン旗(チ)〔中国風で縁に刻みをつけた三角旗〕であった。楽隊の囃子の最も悠長なのは泉崎、東は急調子、西は稍々緩く、従って、西は出征、東は進軍、泉崎は凱旋を表現するなどといったものだ。(『那覇変遷記』)

 

八重瀬町東風平のガーエーする青年たちは、軍隊のような迷彩服を着ていることで有名だが、それは軍国主義への親和を示すという意味よりは、ガーエーに「戦花遊び」という殺気を表現するものだといえるだろう。

 

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写真は八重瀬町東風平の綱引き。

 

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