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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ボーイとの日々

マンション和室の障子の古ぼけたシミを、ボーイは自分が赤ん坊の時につけたシミだと言った。ボーイがママといっしょにマンションを訪ねてくるようになった3回目の時だ。ぼくたち夫妻はたわむれに、ボーイは赤ちゃんのときに、この部屋でハイハイしていたんだよとボーイをからかったのだ。それに対して、ボーイはさっそく物語を作り上げる。シミだけではなく、障子の小さな破れも、赤ん坊の時のボーイが破いたのだという。

4歳のボーイはまだ――保育所以外の場所で――ママから離れるのは不安だ。そこで彼は、ママから離れても大丈夫なように神話を紡ぎあげる。ボーイはこの部屋で生まれ、ハイハイしたのだという神話を、だ。この神話を紡ぎあげることによって、マンションの部屋はボーイにとって安心できる空間に変換されることになる。

ここに見られるのは神話的思考であり、クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)がいうところの「野性の思考」にあたる。

野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。
大橋保夫訳『野生の思考』)


世界は共時的に理解することもできる。通時的に理解することもできる。しかし世界全体を同時に理解しようとするならば、共時的通時的全体として把握するしかない。そのためには神話的思考が必要とされるのである。

ボーイの採った方法は、マンションの部屋をボーイの始原の場所の一つとすることだった。世界の100%がママのおっぱいで占められていた始原の時期に、ボーイはすでにこの部屋に存在していた。この時空の操作によって、ボーイは追憶の対象を現在に持ってくる。現在を追憶の対象にするのである。その方法によって、ボーイはぼくたちとの関係を、共時的通時的全体として位置付け、自己との関係性を把握したのである。

共時的通時的全体という概念を、レヴィ=ストロースは別の場所で、次のように説明している。1983年に久高島を訪れた時の感想である。

琉球の小島で、小さな森や、岩や、天然の井戸や、泉など、聖なるもののかくも豊かな顕現とみなされているもののあいだにいたときほど、自分が遠い過去に近く身を置いていると感じたことはありません。久高島では、世の初めの畑に蒔かれた五種の種子をもたらした聖なる来訪者が出現したという場所を、島の人は私たちに示してくれました。島の人々にとっては、この出来事は神話の時代に起こったことではないのです。その出来事は昨日のことであり、今日の、あるいは明日のことでもあるのです。なぜなら、ここに足跡を印した神々は毎年再来するからであり、全島のいたるところで、儀礼や聖なる遺址が、神々が確かに来訪されたことを証拠立てているからです。
川田順造訳『悲しき熱帯Ⅰ』「中公クラシックス版のためのメッセージ」)


久高島の人たちにとって、神の来臨が神話時代のことではなく現在のことであるように、ボーイは――赤ん坊であった――自己の神話時代と現在の場所を結びつけ、そこに自分が平和に安全でいられる空間を創りだしたのである。