rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

贈与論――贈与の霊ハウ

モースの『贈与論(1925)』でキー概念となるのは、贈与のサイクルを循環させ続ける「ハウ(hau)」という贈与の霊だ。このハウとは何かを解くことによって、モースの『贈与論』は書き進められていくことになる。次に引用するのがハウに関する部分である。

物の霊、特に森の霊や森の獲物である「ハウ(hau)」について、エルンスト・ベストのマオリ族の優れたインフォーマント(情報提供者)の一人、タマティ・ラナイピリが、全く偶然に、何の先入観もなしに、この問題を解く鍵をわれわれに与えている。「私はハウについてお話しします。ハウは吹いている風ではありません。全くそのようなものではないのです。仮にあなたがある品物(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとしましょう。あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返し(「ウトゥ(utu)」)として、何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで、彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、次いで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(あなたのところから来た)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを、私はあなたにお返ししなければなりません。私としましては、これらのタオンガが望ましいもの(rawe)であっても、望ましくないもの(kino)であっても、それをしまっておくのは正しい(tika)とは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことがおこり、死ぬことになるでしょう。このようなものがハウ、個人の所有物のハウ、タオンガのハウ、森のハウなのです。Kati ena(この問題についてはもう十分です)」。
(吉田禎吾・江川純一訳『贈与論』)


モースはずいぶん謎めかしてハウのことを語る。これを簡単に言い直すと次のようになる。品物はA→B→Cと贈与される。そして別の品物がC→B→Aという順路で返礼されていくのである。この順路に厳密な規則性があり、厳密な規則性を守らなければ、多数の人を結びつけるはずのハウが不吉なものに変化してしまうということである。逆に言うならば、このようなハウの不吉性により、ハウは第三者を贈与交換のリンクに組み入れていくことになる。

ハウはなぜそのような不吉な力を持つことになるのだろうか。それはハウが「森の霊や森の獲物」という両義性を持つものだからだといえるだろう。森は異界や他界であり、そこから地上的な豊饒はもたらされる。品物(タオンガ)は森の豊饒が生み出した余剰物であり、それは人間世界を一巡すると、森に帰らなければならない。そして、森の余剰物は森の霊そのものであるのだから、霊そのものとしての力も発揮することになる。それは姿を変え所有者を換えることで地上的な価値を増大させていくという力である。

日本の民話「藁しべ長者」という話がある。平安後期の『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『古本説話集』には、長谷観音の利生譚としてみえているもので、最初に手に入ったものをたいせつにせよという仏の告げに従い、つまずいたとき手につかんだ藁に、飛んできたアブをとらえてくくり付け、それからミカン、布、馬、田と交換して富む話である。話の構造は、贈与と返礼の繰り返しにより、巨大な富を手に入れるというものである。

観音様のお告げ→藁しべ→アブが結び付けられた藁しべ→蜜柑→反物→馬→屋敷というように、異界=他界の霊力を伴って地上に出現したものは、交換を経ることによって地上的な価値を増大させていく。この増大された地上的な価値は、異界=他界のもつ豊饒力の地上的な現れにすぎない。

藁しべ長者ではA→B→Cの流れは、A(観音様)→B(お告げを聞いた男)→C(藁しべ)ということになる。Bの存在によって、Aのもつ豊饒力はCという形を取って地上に出現することになる。「あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません」というのは、AがBにくれたCのことである。

しかし第三者から得たお返しの品は、Aに返さなければならない。それを持ち続けているのは「正しいとは言え」ないことであるし、「私には何か悪いことがおこり、死ぬことになる」という不吉さを現わすことになる。「藁しべ長者」にはC→B→Aの流れはないが、この民話にC→B→Aの流れをつけ加えるとすると、地上の富を、正しい手順で観音様に返し、観音様を通して地上の富が貧しい人たちに再分配されることがなければ、藁しべ長者は遠からず、何らかのたたりを受けて没落することになるという話の構造を取ることだろう。

ハウは異界=他界の霊力なので、正しく扱えば豊饒を生み出す力となるが、正しく扱うことがなければ人を呪い殺す魔力に変ずることになる。異界=他界の霊力であるハウを、いったん品物として地上に出現させてしまうと、ハウそのものである品物やハウのついた品物は人々のあいだを贈与され続けなければならない。

つまりハウというものは、厳密な規則性を守るならば、多くの人を結びつける贈与のリンクを形成するが、それをしまっておくようなことをするならば流動性が止まり、たちまち不吉なものに変化してしまうということである。

ハウは森の霊であるとともに森の獲物でもある。だからハウは森に住む獲物の繁殖力を表わすものだといえる。ハウは森の繁殖力そのものだから、ハウを贈与のリンクに載せて循環させているあいだは、森の繁殖力は多くの人のあいだを循環することになる。しかし、どこかでそのリンクの流れを止めるならば、森の繁殖力はただちに毒に転じ、流れを止めた人に死をもたらすことになる。

そのように危険なものを人間は森から取り出していたのだ。しかしそのような危険を冒すことによって、人間は森の恵みを享受することができたのだといえる。そして森の恵みは危険なものだからこそ、特定の人のもとにとどめてはならないものだったのである。

贈与によって人々に恵みをもたらすとともに、贈与のリンクを止めると人々に不吉な死を招くハウの力は、近代以前の社会ではよく知られていた力だった。近代社会でそれは見失われ、人々は偽りの繁殖力を手に入れることになる。それとともに、人々は互いを結びつけ合う力を失っていくことになる。

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マオリ族の首長プニ』(1839年)