rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

贈与論――クラ交易

マリノフスキ(1884-1942)による『西太平洋の遠洋航海者たち(1922)』が出版されたのは、モースの『贈与論(1925)』に先立つ3年前のことだった。そこにはポトラッチとは異なる、クラ交易という贈与交換の形態が詳細に記されていた。贈与論を構想していたモースには衝撃を与える本であったといえる。ポトラッチがどちらかというと対立する二者間での富の戦いであったのに対して、クラ交易は対立する二者の富の戦いではない。それは多数の島々のあいだを、宝物を循環させるという交易の形態だったのである。

宝物には、「赤い貝の首飾り(ソラヴァ)」と「白い貝の腕輪(ムワリ)」という二種類があった。「赤い貝の首飾り」が時計まわりに島々を巡っていき、「白い貝の腕輪」が反対まわりで島々を巡っていく。この宝物の受け渡しがクラ交易といわれるものであった。宝物を一、二年以上保有する者はいない。宝物は短期間所持すると、必ず次の島に贈与されなければならない。このようにして、「赤い貝の首飾り」と「白い貝の腕輪」という宝物はトロブリアンド諸島を含む島々のあいだで巡回されることになる。
次の地図、写真は『西太平洋の遠洋航海者たち』に掲載されたものである。地図はクラ交易の図、写真1枚目は首飾りをした女性たち、2枚目は腕輪をした青年たちである。

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このクラ交易にともなって、日常生活用品の物々交換も行なわれるが、それはクラ交易のように重視されることはない。一定の方向で巡る宝物の受け渡しが重要なのである。そして宝物は二種類が設定されているので、二方向の渦が同時に巻き続けていることになる。

クラの送り手と受け手のあいだでは、互酬関係が築かれることになる。そのため言語の異なる島々のあいだで、あるいは文化の異なる島々のあいだで、平和的な信頼関係が築かれることになる。

クラ交易の発見は画期的なことだった。西欧の19世紀的な知見では、未開社会の交易としては物々交換しか想定されていなかったからである。他の社会の人間にたいする信用とか信頼という概念は、未開社会では成立しないものとみられていたのである。贈与によって異なる社会どうしが互酬関係で結ばれるというのは、完全に想定外の概念だったのである。

このクラ交易を発見したマリノフスキは、複雑な国籍を持つ人間だった。ポーランド人であったがその当時のポーランドは、ロシアとドイツとオーストリアによって分割統治されていた。マリノフスキの出身地はオーストリア領だったので、マリノフスキオーストリア国籍を持っていた。このオーストリア国籍がマリノフスキにクラ交易を発見させることになるのである。

マリノフスキはオーストラリアのアボリジニを研究するため、1914年にオーストラリアにわたる。ところがその年に第一次世界大戦が勃発してしまうのである。第一次世界大戦ではイギリスとオーストリアは敵国同士だった。オーストラリアはイギリス連邦の一つだったので、自動的にオーストリアは敵国となる。マリノフスキオーストリア国籍だったので、ヨーロッパからはるかにかけ離れた地球の裏側で、突然、敵国人として囚われの身となるのである。

ヨーロッパに戻ることのできなくなったマリノフスキは、オーストラリアの対岸のパプア・ニューギニアに渡ることになる。パプア・ニューギニアはオーストラリアの植民地だったので、そのような移動は可能だったのである。

マリノフスキは1915年6月からはトロブリアンド諸島に移って、1916年5月まで、ピジン・イングリッシュ(主として通商のために用いられる、簡略化された文法と極度に制限された語彙をもつ英語)による調査を行なうことになる。しかしピジン・イングリッシュによるコミュニケーションの限界を痛感したマリノフスキは、トロブリアンド諸島の言語を学び、1917年8月から1918年10月までの長期にわたって住民たちのあいだに住んで、現地の人々と行動を共にし、その生活の詳細な観察を行う。人類学研究に初めて参与観察と呼ばれる研究手法が導入されることになる。

マリノフスキが参与観察したクラ交易の実態は、第一次世界大戦を終えたばかりの西欧の社会科学者たちに衝撃を与えることになった。愚かな戦争を終えたばかりのヨーロッパ人にとって、未開の地で、殺戮によるのではなく平和的に信頼関係を構築しているクラ交易は、自分たちの愚かさを深く認識させるのに十分な事実となったのである。

そしてマリノフスキの報告で重要な点は、クラ交易が、人間のもつ所有欲や虚栄心に基づいて行われているという指摘である。ヨーロッパでは、所有欲や虚栄心などは人間の堕落を表わすものだとされていた。絵画にはそのようなテーマがいっぱいある。禁欲的で謙虚であることが、ヨーロッパの美徳とされる概念だったのである。

ところがマリノフスキは、ヨーロッパの美徳とは逆な概念が贈与交換を成立させると指摘したのである。このメカニズムの秘密は、「気前の良さ」にあった。気前の良い人間こそが社会的威信を獲得することができたのである。気前がよくなるためには、与えるものがなければならない。そのため所有欲は働き者を作りだした。より多く与えるために、より多く働いたのである。クラの住民たちにとって、富は社会的な身分に不可欠なものであった。しかし、とマリノフスキは指摘する。「重要な点は、彼らにとって、所有するとは与えることだという点である」のだった。

しかしながら、クラの住民たちにみられる社会の慣例は、生来の所有欲を弱めるどころではない。かえって逆に、所有するのはすばらしいことであり、富は社会的な身分の不可欠な付属物であり、個人の徳に付随するものだ、ということになる。しかし、重要な点は、彼らにとって、所有するとは与えることだという点である。
(増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』)


虚栄心についても同様であった。人に与えるときにこそ虚栄心は満たされる。虚栄心を満たすためにこそ、クラの航海は、華々しい冒険となり、大勢の人を巻き込む祭りとなったのである。

彼らは人にものをあげるということをあれほど熱心に考えるがゆえに、自分のものと人のものとのあいだの区別はなくなるどころか、むしろひどくなるのである。贈物はけっしてでたらめにやりとりされるのではなく、実際には、いつも一定の義務を果たすために、しかつめらしい形式をふんで与えられる。贈与の基本的な動機は、所有と権力を誇示したいという虚栄心であって、共産主義的傾向あるいは制度があると仮定することなど、もともとできないのである。(前掲書)


マリノフスキが発見し主張したことは、贈与は人間のもつ所有欲や虚栄心によって成立する交換メカニズムだということだ。所有欲や虚栄心は贈与によって満たされ、そして贈与交換し合うことによって、人間たちは他の社会と平和的な関係を保ち、信頼関係を築いていった。

マリノフスキ第一次世界大戦によってパプア・ニューギニアに閉じ込められ、トロブリアンド諸島の参与観察をすることになった。その参与観察によって明らかになったクラ交易という贈与交換によって、第一次世界大戦後の世界に、共産主義革命とも異なる新しいビジョンを提示したのである。そのビジョンはモースの『贈与論』によって、脱近代への方向性を与えられることになる。