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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

聖なるものと狂気

フーコーの『狂気の歴史』をぼくなりに理解すると、次のようなものになるだろう。

はじめに闇夜の静けさがある。その静けさは魑魅魍魎によって満たされ、ざわめいている。人間たちはその魑魅魍魎と折り合いをつけて、昼間のあいだだけを、そして自分にとって安全なテリトリーのなかで、ひっそりと生きていた。その闇の夜を理性の光が照らしていく。理性がすべてを照らしきったとき、魑魅魍魎の存在は霧散する。人間たちは影のない光のなかで生きることになる。

そうするとなにが起きるのか?人間の心のなかに妖怪が目覚めるのである。光があまねく世界を照らすとき、人間の心のなかに怪物が生れる。多くの場合、怪物の存在に気づくことはない。理性によって世界を征服するという野望にとりつかれているからだ。世界を征服するという熱狂は、理性を信じて疑わない。だから怪物たちも理性によってコントロールできると信じている。

少し理性が醒めてくると、怪物の存在に気づく人も出てくる。しかし多くの場合、自分の心のなかに棲む怪物に向かい合う勇気はない。怪物を黙らせるために、世界を征服するという熱狂に、身も心も委ねることになる。この熱狂は理性による熱狂であり、狂気とはいいがたい。しかし結果としては、人間の大量殺戮を招く。ヒロシマナガサキに落とされた原子爆弾を想像するだけで十分だ。狂気ではなく、理性によって人間の大量殺戮は行われるのだ。

フーコーが言いたいことは、狂気に向かい合えということだろうとおもう。19世紀のヨーロッパでは、ニーチェゴッホのように、狂気におちいった表現者たちが大量に出現した。狂気におちいる寸前に、彼らは巨大な仕事をなし遂げる。そして彼らの仕事は、神聖なものとして社会に受け取られることになる。闇夜の静けさのなかにあった神聖なものに向かう気持ちは、狂気のなかに発見されることになる。

ニーチェゴッホたちの仕事が狂気で終わったところから、新しい時代は始まらなければならないと、フーコーは言っているのだろうとおもう。自らの心のなかの狂気に怯えるのではなく、狂気に向き合うこと、そこから新しい時代の生き方は生れてくるのだとおもう。

ゴッホの最後の年に描かれた『烏のいる麦畑』(1890年)、その風景にぼくたちは聖なるものを感じとるだろう。狂気の淵で描きだされる聖なるものに、ぼくたち再び生きる力を与えられることになるのである。

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