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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

宮廷風恋愛から結婚契約、恋愛結婚へ

恋愛という愛の観念は、普遍性をもつものではなかった。それは中世騎士道のなかで誕生した愛の観念だった。

騎士道は12世紀から13世紀にかけてのヨーロッパで誕生したものだった。騎士になるものの多くは、領地を継げない次三男たちだった。彼らは戦争によって手柄を立てて領地を得るか、あるいは運よく領地をもっている未亡人と結婚するチャンスを求めて、ヨーロッパ中を遍歴した。騎士道はそのような騎士たちの理想を概念化したものだった。

騎士道には二つの大きな特徴があった。一つは神に献身するキリスト教戦士としての自己認識であった。もう一つは貴婦人崇拝だった。この二つが重なって、思いを寄せる貴婦人には、聖母マリアに仕えるように仕えるという愛の観念がつくられていくことになる。

次の絵は14世紀初頭のドイツで作成された『マネッセ写本』の挿絵である。

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絵では騎士たちの槍試合(トーナメント)が描かれている。戦う騎士たちを観覧席から眺めているのは貴婦人たちである。貴婦人たちの多くは領主の妻であり、騎士たちは意中の貴婦人に愛の思いを伝えるために戦った。

それが宮廷風恋愛と呼ばれるものである。宮廷風恋愛のルールでは、騎士と貴婦人による性愛や結婚はマナーとして禁じられていた。男女の性愛や結婚をともなわない愛によって、恋愛という特殊な愛の観念が誕生するのである。

ヨーロッパ中世史研究の阿部謹也は、領主たちは妻のコケットリー(女性特有のなまめかしさのこと)によって騎士たちをできるだけ自分の手元にひきとめようとしたのだと指摘する。

若い騎士を迎えた主君にとっては、自分の妻は一種のおとりでした。貴婦人としての妻の振舞い、コケットリーによって多くの騎士を城に引き止めようにすることを望んでいるわけですから、これは恋愛遊戯を使った家臣引き止め策でもあったのです。恋愛とはこの時代には原則として他人の、特に主君の妻に対する感情をいったのであって、独身の男女の間のことではなかったからです。
(『甦える中世ヨーロッパ』1987年)

 騎士にとっては主君の妻の心を射止めることによって、心的には主君よりも上位の立場につくことができた。このような主君と騎士との駆け引きによって、騎士道における貴婦人崇拝が完成することになる。次の絵も同じく『マネッセ写本』の挿絵の一つで、貴婦人崇拝が描かれている。

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騎士は貴婦人(主君の妻)から栄誉(恋心)を授与されるのである。宮廷風恋愛によって恋愛という愛の観念が誕生する。性愛と結婚をともなうことがないため、恋愛という愛の観念は、純潔で宗教的な神秘性を帯びたものとなる。

独身の男女のあいだで恋愛による結婚が成立するようになるのは、18世紀の半ばをすぎたあたりからである。どのようなプロセスを経て、恋愛と結婚が結びつくようになるのだろうか。

フーコーによると、それは17世紀後半から始まる一般施療院や救貧院などへの大規模な監禁の結果生じたものだったとされる。ヨーロッパ中を巻き込んだ一世紀にもわたる大規模な監禁をフーコーは「大監禁」と表現するが、監禁されたのは狂人や貧乏人だけではなかった。「放蕩、濫費、打ち明けるのも恥ずかしい色恋沙汰、不名誉な結婚」も監禁の対象とされたのである。

放蕩、濫費、打ち明けるのも恥ずかしい色恋沙汰、不名誉な結婚、これらは、監禁がおこなわれる最も多くの動機に数えられている。裁判にはまったく属さず、宗教にも正確には属さないこの抑圧の力――国王の権力とじかに結びついたこの力(つまり、監禁制度)は、専制君主制の専横な態度を実際には表現するのではなく、家庭の諸要請がもっている、以後きびしくなる性格を表現している。監禁は、絶対王政ブルジョア家庭の自由な裁量にゆだねたものだったのである。
(田村俶訳『狂気の歴史』)

 監禁を要求したのは家族だった。それも多くはブルジョア家庭だった。家族に不利益をもたらすとみなされた者は家族からの要求によって、ただちに監禁されたのである。

絶対的権力をもって治安代官は、公然と放蕩をおこなう者ならだれでも手続きなしに検挙し、その後、当時は上訴が認められていなかったシャトレ裁判所の判決が下されるのであった。だが、こうした処置がとられるのは、躓き(スキャンダル)が公になっている場合、または家族の利益が侵される危険がある場合にかぎられていたのであり、何よりも、家族の世襲財産が浪費されないようにすること、またこの財産が相続権のない人々の手に渡らないようにすることが重要だった。ある意味では、監禁とそれを包括する治安体制のいっさいは、家族の構造のなかで一種の秩序を取締るのに役立っていたのであって、その秩序は社会の規則としてと同時に理性の規範として価値をもっていた。さまざまの要請をおこなう点で家族は、理性の本質的な基準の一つとなっている。監禁を要求し獲得したのは、何よりも家族だったのである。(同前)

この監禁によって何がもたらされたのか。それは宮廷風恋愛の息の根を止めることであった。

この時代〔17―18世紀〕にはっきり目につくのは、家族本位の道徳が性の倫理を大きく独占することである。論議もなく故意の言い落としもなく行われてしまった独占。《才芸に秀でた婦人(プレシューズ)たちの》運動(17世紀フランスの貴婦人たちのそれ)が長らく、この家族本位の道徳を拒否してきたのであって、この拒否の道徳上の重要性は大きい。よしんばその影響は心もとない、一時的なものであったとしても、つまり、騎士道的な恋愛(アムール・クルトワ)の儀式をよみがえらせ、結婚の義務よりもこの恋愛の完全さを保持するための努力、家庭の束縛よりもつねに重視される連帯関係ならびに一種の共犯関係を感情の次元で確立するための試み、それらは結局、ブルジョア道徳がおさめる勝利に屈服しなければならなかった。恋愛は結婚契約によって神聖さを失うのである。(同前)

 「論議もなく故意の言い落としもなく行われてしまった独占」というのは、性愛(セクシュアリティ)の倫理的な判断基準を家族が独占するようになったということである。それは議論を尽くしてなされたものではなく、ごまかしによってなされたものでもない。監禁という強制力によってなされたのである。

プレシューズというのは、17世紀に登場してきた才色兼備の貴婦人たちのことをいう。絶対王権を確立した17世紀のフランスでは、宮廷が社交の重要な場となっていく。プレシューズたちはサロンをつくり、そのサロンのなかで高級な文化をつくりあげていく。

次の絵は18世紀の絵であるが、才色兼備の女性として名高いポンパドゥール夫人の肖像(1755年、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール作)である。夫人が手にする楽譜や画面左側(夫人の座る椅子の奥)に配される楽器は音楽を、画面右側の豪華な机の上に描かれる地球儀や『法の精神』第三巻、『百科事典』第四巻など当時の最先端の知識を詰め込んだ書物は学問、高い教養を表わしている。 

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このような才色兼備の女性たちは、次の絵のようなサロンを開いていた。アンセ=シャルル=ガブリエル・レモニエール作『1755年のジョフラン夫人のサロンにて』(1812年)である。 

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18世紀のサロンには、一流の文化人たちが集っていた。若きモーツァルト少年もジョフラン夫人の開くこのサロンで演奏をしたという。

このような才色兼備の貴婦人たちは、「騎士道的な恋愛(アムール・クルトワ)の儀式をよみがえらせ」た。「家庭の束縛よりもつねに重視される〔愛人との〕連帯関係ならびに一種の共犯関係を感情の次元で確立するための試み」を試みたのである。

ところがそのような試みは、「絶対王政ブルジョア家庭の自由な裁量にゆだねた」監禁によって打ち砕かれた。プレシューズたちが出現した17世紀初頭から半世紀を過ぎた1657年には、〈一般施療院〉が創設され、大規模な監禁が始まる。そして一般施療院の創設からまもなくして、劇作家のモリエール(1622-1673、フランス)による『才女気取り』(1659年)が発表される。その作品においてモリエールは、宮廷風恋愛よりも、「結婚こそ神聖にして畏敬すべきものである」と主張することになる。

この主張の裏には監禁があった。監禁された者たちは、狂人や貧乏人などの理性をもたないとみなされた者たちだった。その非理性のなかに「放蕩、濫費、打ち明けるのも恥ずかしい色恋沙汰、不名誉な結婚」も含まれていた。放蕩、濫費、色恋沙汰は、貴族たちの家庭生活をネガティブに表現したものだといえる。それらが監禁の対象になっていたので、1世紀後の18世紀には、モリエールの主張が勝利をおさめることになる。監禁が理性の範囲を定めるのであって、理性の範囲は家族制度によって定められたのだとフーコーは指摘する。

やがて、騎士道精神とこの女たちの精神に共通であった倫理的な不安は消滅するのであるが、その不安にモリエールは自分の属しているブルジョア階級と将来の時代のために、次のように答える。「結婚こそ神聖にして畏敬すべきものである。そこを出発点にすることは立派な人間としてふるまうことである」。神聖なるものは、もはや恋愛ではなく、結婚のみ、しかも公証人立会いのもとに法的に認められた結婚のみとなる。つまり、「結婚契約をむすぶこと以外には、恋愛はありえない」のである。家族制度が、理性の範囲を定める。その範囲外では、気違いのすべての危険は猛威をふるって、人間は非理性とそのすべての狂暴さの犠牲となる。
フーコー同前)

 18世紀には宮廷風恋愛は狂気の沙汰とみなされるようになり、結婚契約がスタンダードな規範になっていく。次の絵はイギリスの画家ウィリアム・ホガースによる『当世風結婚.1:結婚契約』(1744年)である。f:id:rapanse:20150907110024j:plain

右側のテーブルでは没落貴族の父親(右)と成金ブルジョアの父親(左)が結婚契約を交わしている。左側で結婚する当人同士はそっぽを向いている。この『当世風結婚』は6作の連作であるが、ブルジョア出身の娘は愛人をつくって家庭崩壊を招き、最後に自殺することになる。

このような家族モラルに対する見方の変化によって、中世から続く宮廷風恋愛は、「非理性の次元に属するものとして排除」されていくことになるとフーコーはいう。

西洋の恋愛の古来の形態のかわりに、新しい感受性があらわれる。家庭から、そして家庭のなかで生れる感受性が。それは自分の秩序や利害に合致しないすべてを、非理性の次元に属するものとして排除する。(同前)

19世紀には結婚契約よりも恋愛結婚が主流を占めるようになる。狂気の沙汰として排除された恋愛が家庭内にもちこまれるようになるのである。監禁によって保たれていた家庭の「公的な秩序」は、恋愛結婚によって「私的な事件」に変化することになる。しかし同時に、恋愛結婚によって家庭は、「狂気の多様な形態が生れでる争いの場を構成する」ことになるのだとフーコーはいう。

十九世紀には、個人とその家族との争いは、私的な事件となるのであって、その場合には心理学的問題という姿をおびるだろう。その反対に、監禁がおこなわれていた時代にはずっと、この私的な事件が、公的な秩序にかかわる事件だったし、一種の普遍的な道徳の立場と関係をもっていて、全市民が家族の構造にふくまれる苛酷な義務に関与させられていた。それを侵害する者は誰も、非理性の世界に入っているのであった。しかもこうして家庭は、非理性にたいする敏感な感受性の主要な形態となることによって、いずれ、狂気の多様な形態が生れでる争いの場を構成するようになるだろう。(同前)

 家庭内における「非理性にたいする敏感な感受性」がどういうものであるのかは、『狂気の歴史』(1961年)から15年後に出版された、『性の歴史Ⅰ:知への意志』(1976年)で展開されることになる。