読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

15世紀における〈狂気〉の誕生

「十五世紀になると、人間の狂気の画像(イマージュ)である例のグロテスク図柄は、数多くの誘惑のなかの特権的な形象の一つとなる」(田村俶訳『狂気の歴史』)とフーコーは言う。グロテスク図柄は中世ヨーロッパで親しまれていたものだ。グロテスク図柄がどんなものか、次の絵を見るとよい。

f:id:rapanse:20160218212937j:plain

f:id:rapanse:20160218213003j:plain

これらの絵は14世紀イギリスの典礼書に記載されているものだ。このようなグロテスクな図柄は、欲望や堕落の見本として描かれていた。

この図柄は当時、どのようにして欲望本位の人間において霊魂が動物のとりこになるかを教えていた。怪物の腹のうえにのせられたあのグロテスクな顔は、プラトンふうの壮大な隠喩(メタフォール)の世界に属していて、罪悪に夢中になった精神の堕落をあばいていた。(フーコー同前)

ところが15世紀になると事情は違ってくる。狂気自体が人間をとりこにするものに変化してしまう。人間の知恵は、夢想の狂気状態のとりこになってしまうのである。

次の絵は、ヒエロニムス・ボスによる『聖アントニウスの誘惑』(1505年頃)である。聖アントニウスは、3世紀のエジプトで生まれ、財産を貧しい者に与え、自らは砂漠に籠もり苦行生活に身を投じたというキリスト教の聖人だ。砂漠で修行中、アントニウスは悪魔の誘惑を受け、生々しい幻覚に襲われる。苦闘する聖アントニウスの姿は美術の題材として好まれた。

f:id:rapanse:20160218213311j:plain

フーコーはボスの描くアントニウスの姿を、狂気に魅了された「錯乱の形態」だとする。

隠遁者の静けさを襲うのは、欲望の対象となる品々ではなくて、夢想から湧きおこり、一つの世界の表面に人目をしのんで黙りこんだままの、ひそかに閉ざされたあの錯乱の形態なのである。リスボン国立美術館の例の『誘惑』で、聖アントワーヌの正面にすわっているのは、狂気、その孤独、その悔悛、その貧しさから生れでた人物像の一つである。ほのかな微笑が、ちらりとある種の作り笑いをうかべている、不安の存在そのものたるこの胴体のない顔を明るくする。ところで、誘惑の主体でもあり客体でもあるものは、まさしくこの執念ぶかい悪夢のシルエットであって、それが苦行者アントワーヌのまなざしを魅了する。二人の人物はともに、いわば鏡にむかっておこなう問いかけのとりこになっているが、その問いかけは、ただ周囲のけがらわしい雑音がうるさいだけの静けさのなかで、いつまでも答えがかえってこないのだ。(フーコー同前)

 画面中央で聖アントワーヌと対話しているのは、この男だ。

f:id:rapanse:20160218213527j:plain

 「狂気、その孤独、その悔悛、その貧しさから生れでた……不安の存在そのものたるこの胴体のない顔」が聖アントワーヌを誘惑する。欲望によって狂気が生れるのではなく、狂気こそが欲望の対象となっていくのだ。フーコーは、狂気が15世紀の人間を魅了したのだという。

十五世紀の人間には、自分の夢想の、おぞましくさえある自由と、自分の狂気の幻想の方が、生身の人間の欲望をかきたてる現実よりもはるかに多くの魅力があった。(フーコー同前)

このフーコーの見たては正しいとおもう。狂気に魅了されているという視点に立たないと、15世紀の美術をあまねく理解することはできないからだ。

次の絵は、アルブレヒト・デューラー(1471-1528)による版画連作『黙示録』(1498)中の「四人の騎手」だ。新約聖書の一つである『ヨハネの黙示録』では、四人の騎手は、剣と飢饉と死・獣により、地上の人間を殺す権威を与えられているとされる。

f:id:rapanse:20160221214334j:plain

フーコーは、この版画に描かれている四人の騎手を、「気違いじみた復讐をくわだてる髪をふりみだした戦士」だとし、この四人の騎手による勝利は、「〈狂気〉の手中にある」と言う。

十四世紀の宗教画のあとにつづくのが、そこではあらゆる知恵が無効となる世界のヴィジョンである。(中略)終末も、一時の通過や約束という価値をもたない。それは世界の古くさい理性がのみこまれてしまう闇夜の到来だ。たとえば、デューラーの黙示録の騎士たち、神によって派遣された人々を見るだけで充分である。それは、〈勝利〉と和解の天使ではなく、すみわたった正義の伝令使ではなく、気違いじみた復讐をくわだてる髪をふりみだした戦士である。世界はあまねくゆきわたった〈激怒〉のなかに落ちこんでいる。勝利は、神のものでも悪魔のものでもなく、〈狂気〉の手中にある。(フーコー同前)

 狂気に魅了されることによって、15世紀ヨーロッパの人間は、世界を理解したのだ。狂気に取りつかれることが、正気を保つすべだったのかもしれない。

ところでぼくたちは、この15世紀ヨーロッパに誕生した〈狂気〉という世界を、よそごとだと見ることはできない。なぜなら、このような〈狂気〉のなかで、ルターによる宗教改革(1517)は幕を開けるからである。そして、宗教改革にともなう宗教戦争を通過することによって近代市民社会は産声を上げ、その市民社会で資本主義はダイナミックな運動を開始するからである。そのためぼくたちは、現代社会の根底には、〈狂気〉という前提があることを知らなければならない。