rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

他者への恐怖と贈与交換

フランスの社会学者マルセル・モース(1872-1950)は、『贈与論(1925)』の中で、人間の経済行為には物々交換に先立って贈与交換があったのだと指摘した。物々交換とは互いに欠けているものを補い合うための交換だが、贈与交換はそれとは異なる。自己の所有する最も貴重なものを他者に与えるという交換形態である。

モースは贈与交換という信頼関係の構築の上に物々交換が成立するのだと説く。

ところで贈与は必然的に信用の観念をもたらす。発展が経済上の法を、物々交換から販売へ、現金販売から信用販売へと移したのではない。一定期間の中で与え、返却される体系の上に、一方で物々交換が生まれた。これは以前には別々になっていた二つの時期を隣接させ、単純化する過程で作られたものである。(吉田禎吾他訳『贈与論』)


モースの主張は、19世紀後半に全盛を極めた社会進化論を、真っ向から否定するものであった。社会進化論とは、ダーウィンの進化論を人類社会にあてはめたもので、人類社会を「未開」から「文明」へ進化するものだとする考え方だった。それに反し、あらゆる経済活動は「信用の観念」に基づくものであり、「信用の観念」は贈与によってもたらされたのだと、モースは主張したのである。

ここでモースが言わんとしていることは、とても重要なことだとおもえる。贈与は物々交換に先行する経済行為であるにとどまらず、人類の経済行為の分母の位置にあたるものであり、人間のありかたの一般的状況を示すものだ、ということになるのである。

ところでなぜ人は贈与をするのであろうか。モースはそれを他者への恐怖という視点から解いていく。

われわれに直接先立ち現在もなおわれわれの周囲に存在するすべての社会においては、また、われわれの民衆の道徳性が表われた多くの慣習においてさえも、中庸というものは存在しない。全面的に信頼するか、とにかく疑ってかかるかのどちらかである。武器を置き呪術をやめるか、束の間の歓待から娘や財に至るまでのすべてを与えるかのどちらかなのである。(前掲書)


モースの言葉を補足して言うと、中庸という道徳は、文明化された社会の支配階層における道徳だといえる。そのような支配階層では、中庸が社会秩序を守る道徳ということになる。ところが、民衆層において「中庸というものは存在しない」とモースは言う。他者を全面的に信頼するか、疑ってかかるかのどちらかの態度しか存在しない。敵か味方かしか存在しないというのである。

この二者択一の状況で何を選択するのか。多くの場合人間は、全面的に信頼する方を選択するのである。これが人間のありかたの一般的状況だといえる。他者を全面的に信頼するために、他者に向けられた武器を置き、他者を呪うための呪術をやめなければならない。敵を味方にするためには、それだけでは足りない。束の間の歓待をし、その歓待の中で、他者に「娘や財に至るまでのすべてを」与えなければならないのである。

贈与交換が成立するためには、モースは、①贈り物にお返しをする義務があり、②贈り物を与える義務があり、③贈り物を受け取る義務があるという。

全体的給付は、受け取った贈り物にお返しをする義務を含んでいるだけでなく、一方で贈り物を与える義務と他方で贈り物を受け取る義務という二つの重要な義務を想定しているからである。(前掲書)


モースのいう「全体的給付」とは、経済的取引を成立させるための、「礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、婦人、子供、舞踊、祭礼、市(いち)」のことをいう。経済的活動は他者との信頼関係構築のためになされるのであり、そこには二つのグループを結びつけるための様々なセレモニーや結婚、結婚によってもたらされる子供までもが含まれる。このような二つのグループの一体化(国同士の同盟や友情による結びつき、結婚による縁組を含む)をもたらす経済的取引を、モースは全体的給付体系と名付けるのである。

この全体的給付体系を成立させるためには、①返礼する義務、②贈り物を与える義務、③贈り物を受け取る義務という三つの義務が欠かせない。それらの義務の一つでも履行されない場合には、他者に敵意を示すことになり、他者からの呪いや他者との戦いを招くことになる。

『ペロー童話集(1695年、フランス)』の「眠れる森の美女」では、王女の洗礼式に招待されなかった仙女が王女に呪いをかけることになる。宴席に招待するということは「贈り物を与える義務」に含まれる。その義務が履行されない場合は、招待されなかった他者を敵とみなしたと同様のことを意味することになる。

眠れる森の美女」では、長い間子どものできなかった王と王妃のあいだに王女が生まれ、王女の名付け親として七人の仙女が王女の洗礼式に招かれる。七人の仙女は王女に贈り物として様々な美徳を授ける。招待が贈り物であり、その贈り物に対して美徳を授けることが返礼にあたる。ところが洗礼式に招かれなかった仙女が一人だけいた。そのため、招待されなかった仙女から、王女は呪いを受けることになるのである。そこには中庸はない。

人間は愛するから贈与するのではない。贈与するから愛し合えるのである。その根底には他者への恐怖がある。他者への恐怖があるからこそ、その他者と愛し合おうとするのである。中庸はない。他者からの呪いか他者との友愛かどちらかしかない。他者からの呪いを他者からの祝福に変えるためには、贈与交換が必要とされるのであり、贈与交換を成立させることによって、人間の社会は築かれたのだといえるであろう。

ポトラッチの贈り物

写真はアメリカ北西太平洋岸に住むクワキウトル族の「ポトラッチの贈り物(1900年)」である。ポトラッチとは、アメリカ北西太平洋岸に住むインディアンたちの競争的な贈与儀礼のことをいう。ポトラッチでは、相手が返礼できないほどの贈り物を与えることによって、社会的威信は高まることになる。写真で室内に積まれている贈り物は毛布の束であり、それが人間の背丈の三、四倍に達することがわかかる。写真ではその毛布の山が七つほどあることが確認される。