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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

理性への崇拝と理性への幻滅

2枚の絵を比較してみよう。一枚目はアントワーヌ・ヴァトー(1684-1721年、フランス)による『満足そうな道化師』(1712年頃)で、二枚目はその絵を基にしたルシアン・フロイド(1922-2011、イギリス)による『大きな室内W11(ヴァトーによる)』(1981-83年)だ。ルシアン・フロイド精神分析を創始したジークムント・フロイト(1856-1939年)の孫にあたる。

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ヴァトーの絵からは軽やかで陽気な音楽が流れてきそうな感触がある。ところが、同じ構図を採るフロイドの絵からは、たとえ左から二人目の人物が楽器を抱えていたにせよ、感触としての音楽は流れてこない。音楽性が否定された絵だといえる。

フロイドは何を描きたかったのだろうか。おそらくそれは、近代という時代の始まりと比較した「近代」という時代の終焉だろうとおもわれる。それはポスト・モダン(脱近代)の幕開けを告げるものだといえるだろう。

ヴァトーは1710年代に活躍した画家だ。その活躍した時代は、啓蒙思想と呼ばれる思想運動がヨーロッパを席巻し始めた時代にあたる。啓蒙思想とは、理性の光によって蒙昧な闇を照らすという思想だ。

18世紀を通して、ヨーロッパは理性の光によって浮かれ始める。恋愛が絵画の中心的なテーマとなり、生活が明るいタッチで描かれる。王侯貴族は権威あるものとして描かれるよりも理性あるものとして描かれることを好むようになる。18世紀ヨーロッパの絵画は、熱に浮かされたように、遊戯としての恋愛と読書に励む姿を描くようになる。

ヴァトーはその啓蒙時代の初期を代表する画家だ。だからまだ、骨の髄まで啓蒙思想に染まるということはない。次の絵のタイトルは『ピエロ』(1717年頃)だが、このピエロは朗らかそうには見えない。まだ多少、その前の時代の暗さを引き摺っている。朗らかさの裏に潜む暗さが、ヴァトーの絵に深みを与えるのだといえる。

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フロイドはヴァトーの絵に、理性の時代としての近代の幕開けを見たのだろう。しかしフロイドが描くのは近代の終焉だ。大きな室内はまるで倉庫のようだ。無造作に水道管が走っている。倉庫のような剥き出しの室内にいる人物たちは、そこにいる理由を持たない。やりきれなさだけが彼らを結びつけているようだ。

このやりきれなさを強調するのは、女性のドレスやスカートに描かれた精密な図柄と、同じく精密に描かれた観葉植物だ。それらが精密に描かれる分だけ、室内の空虚さは強調されることになる。

植物を精密に描くのは、19世紀後半に流行ったイギリスの絵画の手法だ。博物学的精密さは、理性の一つの到達点であり、19世紀後半のイギリスは、精密な植物画の中に人物を配した。それは人びとに、生活への満足感を与えるものだった。しかし、そのような精密さで生活のすべてが覆われることは、もはやできない。フロイドは家具や衣服などを精密に描くことによって、逆にそれに包まれることのできない人間たちを描いたのだといえる。

「理性」という言葉は、フランス革命(1789年)の頃には、超越的な力として用いられるようになる。理性が神のように崇拝される時代が来るのだ。そのフランス革命から200年を経過して、理性は脱ぎ捨てたい「何か」にまで変貌を遂げてしまうことになる。フロイドの描く人物のうち、二人はすでに裸足で描かれている。そこでは衣類や靴、楽器、扇子などは、人間を縛りつける「重さ」として描かれているのではないだろうか。