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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

内面と外面

歴史学者の阿部謹也(1935-2006)は、中世ヨーロッパ社会のイメージを、深い森に囲われた小さな単位のコミュニティから成る小宇宙だとする。深い森の中の小さなコミュニティが人間の住む世界であり、そのコミュニティから一歩出たとたん、人間狼や悪霊、死者の霊たちが徘徊する森の中、すなわち大宇宙に放り出されることになる。

その大宇宙と小宇宙を結びつける者は、メルヘンの主人公たちだったと阿部は言う。

私は、グリムのメルヘンはほとんど例外なしに小宇宙から大宇宙を垣間見る所で成立したものだという風に考えています。なぜかと言うとメルヘンの主人公は基本的にはひとり旅ですね。メルヘンの主人公はひとりで旅をし、そして必ずどこかで救い手が現れています。彼を助ける人というのは全部大宇宙から来る。妖精とか植物とか動物とかですね。決して人間、仲間の人間ではないんですね。大宇宙から来るんです。(『中世賤民の宇宙』)


旅は小宇宙をはなれ、その瞬間に死者の世界に足を踏み入れることを意味した。その旅がひとり旅であるということは、彼が境界に生きる人間であることを意味する。人間として生きながら、大宇宙に属するものになるのである。そうすると不思議なことに、大宇宙に存在する「妖精とか植物とか動物とか」が彼を助けることになる。

このように大宇宙にいる恐ろしい存在とうまく折り合いを付けた人間は何事もうまくいくという願望がメルヘンに表わされていることになる。そして、大宇宙とうまく折り合いをつけた人間には内面性がないと阿部は指摘する。

そして彼は、別れ道に来ても一切迷うことはなく、必ず右か左にぱっと進むのです。また、難問を課されても少しも苦しむことがない。誰か必ず助け手が現れてすべての難問は解決されるんですね。そしてもう少し考えれば、メルヘンの主人公には内面性というものがない。あるいは内面的な葛藤というものがないんですね。(前掲書) 


「メルヘンの主人公には内面性というものがない」という指摘は重要だ。これは内面性を重視したり、内面的な葛藤をしているかぎりでは、大宇宙のもたらす運や幸運などを取り逃がすことを意味する。

それでは大宇宙にいる恐ろしい存在を、逆に人間の救い手にする方法とは何か。おそらくそれは内面性と反対のことを重視することだ。つまり、外面性を重視するということだ。外面性を重視するということは、自分の内面から外を見るのではなく、外から見られる外面性として、自己を存在させるということだ。ただしこの外は、人間社会内における外面性ではなく、大宇宙にさらされる外面性ということになる。

未開社会における加入儀礼が、多くの場合、新規加入者の身体を責め苛むことを儀礼の中に採り入れていることは、社会的法を身体に刻印するために行われているのだと、フランスの政治人類学者ピエール・クラストル(1934-1977)は指摘する。

彼らが苦痛の中で知ることを学ぶ法は、未開社会の法であり、次のことを各自に対して語るのだ。すなわち、お前は他の誰かより価値が劣ることもないし、またそれを超えることもないのだ、と。
(渡辺公三訳『国家に抗する社会』)

成人集団への加入儀礼で新規加入者の身体が責め苛まれ、傷跡が身体に刻印されることになる。この刻印こそが、他者によって読まれる法になるのだ。自らが読まれるものになることによって、加入儀礼の新規加入者は、そのコミュニティの全員に読まれるだけではなく、大宇宙によって読まれる存在に変化する。外面的な存在になることによって、自己と大宇宙はつながることになる。そして、大宇宙とつながることによって、小宇宙を超えた国家という装置は、それを創る欲望自体が封印されることになる。

古代的な社会、刻印の社会は、国家なき社会、国家に抗する社会なのだ。全ての身体に等しく刻まれた刻印は、次のように表明する。すなわち、お前は権力の欲望を持たず、服従への欲望を持つことはない、と。この分離されざる法は、分離されざる空間すなわち身体そのもの以外の場に刻みこまれることはできないのだ。(前掲書)


分離されざる法というのは、コミュニティの分離をうながす、権力や服従への欲望を封じる法ということである。分離されざる空間というのは皮膚のことだ。この皮膚によって、内面と外面は分離されずに存在することになる。

ユダヤ系ドイツ人であるフランツ・カフカ(1883-1924)は、1914年に『流刑地にて』という短編小説を書き上げ、1919年に発表する。この小説では、入墨で、囚人の身体に直接その罪状を刻印する機械が登場する。

「われわれの判決はさほど苛酷なものではありません。この耙(まぐわ)を使って、犯人の身体に犯行を書きつけるのです。この犯人を例に取りますならば」と例の男を指しながら、「――上官ニ服従スベシ――と身体に掘りこむのです」(本野享一訳)


この判決を囚人本人は知らない。

「自分で自分の判決がわからないのですね?」「そうです」と将校は同じことを答え、しばらく黙ってしまい、もう一度くわしく質問してもらいたそうな顔つきであったがやがて、「知らせてもしようがないでしょう。自分の身体に書いてあればわかることです」と言った。(前掲書)


ここにも内面はない。皮膚への判決の執行だけが重要なのである。しかし、未開社会の加入儀礼における身体への刻印とは、決定的に異なる背景がある。この短編小説が執筆された1914年は第一次世界大戦(1914-1918)が始まった年であり、第一次世界大戦は、国力の全てを戦争に向けて動員することが可能な国民国家同士の総力戦となったのである。

国家が国民に向けた暴力装置となったとき、身体への刻印は大宇宙とのつながりを保つものではなくなった。国家が大宇宙に代わる存在になったのだ。そのとき自己の内面はどうなるのか。1909年に発表された『祈る男との対話』で、自己という存在に対するカフカの不安感が、次のように語られる。

「いままでに、自分自身の力で自分の生活に自信を持ったことは、一度もないのです。つまりわたしは、周囲のものを、じつにあやふやな姿のまま思い浮かべます。それらのものが、かつては生きていたのだが、いまは亡びようとしている、そんなふうに信じているような、思い浮かべ方なのです。わたしは、ものが、わたしの眼のまえに現われる以前は、どんな姿をしていたかそうしたものの姿が見たいと、いつも思っています。それはおそらく、美しくて安らかな姿なのでしょう。みんながよくそんなふうに話しているのを、わたしは聞きますから、そうなくてはならぬはずです」(本野享一訳)


国民国家の形成は、土地の所有権を持たないユダヤ人やロマ(ジプシー)を迫害することによって進行する。カフカの当惑は、そのような社会背景と深くかかわるものだといえる。では皮膚への刻印とは何か。それは国民や民族などという近代に創出された概念を指すものといえるだろう。