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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

狩俣うやがむのにーり(二)

狩俣には九つのムトゥ(元)があるとされている。ムトゥは血縁集団の宗家に相当し、現在は拝所ともなり、宗教儀礼を行う場ともなっているという(上原孝三「宮古島の祭祀歌謡からみた女神」より)。

ニーリ(一)では、シマ全体のウヤガンであるマツメガに祈りが捧げられた。これは神々の世界の物語である。ニーリ(二)以下では、ムトゥという地上的な血縁集団の神話的世界が物語られる。これは人間の世界の物語である。その意味で、ニーリ(二)は、神々の世界と人間の世界をつなぐものだとみてよいだろう。

歌の内容は、ウプグスク(大城)ムトゥ(元)の由来記である。ウプグスク・ムトゥの始祖であるマダマという女性が七人の子を生んだということが歌われている。

各ムトゥの地上的な利害関係は、祈りの対象をウプグスク・ムトゥに絞ることによって調整され、各ムトゥは神話的秩序にしたがって、狩俣のシマを構成することになる。

三番目に生まれたヨマサイ(世勝り)という男性は、歴史的時空に存在する人間だといえるだろう。ニーリ(五)では、宮古諸島を統一した実在の人物である仲宗根豊見親(とよみおや)に彼が召し抱えられ、船頭として、八重山から沖縄までのエリアの交易に従事したことが歌われる。つまり、歴史的事象が神話の中に組み入れられるのである。

このような歴史的事象は、ウプグスクの始祖であるマダマが次々と子を生むという単調な叙述の中で、神話的世界の中に組み入れられることになる。
文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、神話的思考は「歴史的生成を否定するわけではなくて、それを認めはするのだが、内容のない形式として認める」のだと述べる。つまり、歴史的事象は神話的社会秩序の中に組み入れられるが、そのことによって神話的社会秩序が動揺することはないということである。引用中の「冷い社会」という概念はレヴィ=ストロースの提唱したものであり、それは神話的思考を中心として社会秩序を構築している社会のことである。

冷い社会がそれ〔初原的状態の可能な限りでの恒常化〕に成功するためには、制度によって、偶然的な人口要因の影響を制限し、集団内および集団間にあらわれる対立を緩和し、また個人的集団活動の枠を恒久化して、回帰的連鎖に調節作用を及ぼすだけでは足りない。結果の集積が経済的社会的大変動を生じるような非回帰的事件の連鎖が形成された場合、ただちにそれを破壊しなければならない。さもなくば、そのような連鎖の形成を予防する有効な方法を社会がもっていなければならない。それは一般に知れ渡った方法である。歴史的生成を否定するわけではなくて、それを認めはするのだが、内容のない形式として認めるのである。
大橋保夫訳『野生の思考』)

歴史的事象は、経済的社会的大変動を生じさせないために、神話の叙述の中で無意味化されなければならない。
このようにシマ社会におけるムトゥという対立を緩和し、歴史的事象を無意味化しながら認めるために、ニーリ(二)は重要な機能を果たしているものだといえる。

ウヤガンのニーリ(二)では、カンヌサア(神の誘う子)である女子が三名生まれたことを叙述している。神の誘う子とは、早世した子であるともいえるし、人間の男性に嫁ぐことのなかった女性を意味するものともいえる。いずれにせよ、地上的な存在ではなかったということだ。

このような地上的には無意味であり、神話的にも活躍することのない存在の叙述を続ける理由には、何があるのだろうか。それはムトゥという地上的な利害・対立関係、仲宗根豊見親という歴史的事象を無意味化するためのものだといえるであろう。神の誘う子と人間的な存在である子とが並列的に叙述されることによって、地上的な利害・対立関係や歴史的事象は無意味化され、無意味化されることによって、神話的世界の中で語られることになるのだといえる。
この神の誘う子という存在の叙述によって、ウヤガンのニーリという長大な叙事詩の世界は展開する機軸を得るのだといえるだろう。


狩俣うやがむのにーり(二)

フンムイのウプグスク(大城)御嶽を祀るマダマは、昔の名高いマダマは、
新しい子を生んだ。始めの子を生んだ。
マバルマという女の子が生れた。長女が生れた。
マバルマの次に、長女の次に、
マヤマトという男の子が生れた。家の柱になる子が生れた。
マヤマトの次に、家の柱の次に、
ヨマサイという男の子が生れた。名高い子が生れた。
ヨマサイの次に、名高い子の次に、
ススメガという女の子が生れた。神の誘う子が生れた。
ススメガの次に、神に誘われた子の次に、
マカナスという女の子が生れた。神の誘う子が生れた。
マカナスの次に、神に誘われた子の次に、
ママラツーという女の子が生れた。神の誘う子が生れた。
ママラツーの次に、神に誘われた子の次に、
マヅマラーという女の子が生れた。手仕事にすぐれている子が生れた。

(稲村賢敷『宮古島旧記並史歌集解』より、具志堅要による意訳)