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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

日常の中の永遠

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フェルメール作《ミルクを注ぐ女中》(1658年、オランダ)

この作品で不思議なのは、日常生活が永遠の時間として描かれていることだ。女中は無心にミルクを注いでいる。それは静止した画面なのに、彼女は永遠にミルクを注ぎ続けているような感じを覚えさせる。

その謎は、絵画の技法に含まれているのではないだろう。おそらく「世俗内禁欲」なのだ、この絵の細部に宿るものは。

世俗内禁欲とはキリスト教プロテスタンティズムにともなう概念だ。僧院における祈りの日々のように、日常生活そのものが、神への祈りに捧げられる。そのとき神が日常生活の細部に宿ることになり、日常生活が永遠の生につながることになる。

なぜ17世紀のオランダで、そのような作品が成立しえたのだろうか。その謎は次のように解くことができるだろう。

オランダは近代ヨーロッパの中で最初に市民社会を形成した。しかしそれは、18世紀のイギリスやフランスのような、中央集権的な国民国家を形成することはなかった。この差異が、日常生活における永遠という時間意識を、分かつことになったのではないだろうか。

オランダの歴史家ホイジンガ(1872-1945)によると、17世紀のオランダは、中世的な都市の自由を残した国家だったという。

この国の繁栄はむしろ時代遅れと呼ばなければならないような産業体制の枠内で生じたのである。(中略)ネーデルラントが大をなしたのは、実際、まだ中世後期の前重商主義的産業体制においてであった。人々が全力を傾けて護持しようと願った原理は、したがって、あの中世的な都市の自由、つまり最も狭い範囲に属する社会集団の利益のために他のすべてを犠牲にする自由、という原理であった。
(栗原福也訳『レンブラントの世紀』)

ネーデルラントというのはオランダのことだ。イギリスやフランスなどが中央集権的な国民国家を形成するための基盤を整えつつある中で、オランダは、時代遅れの中世的な都市の自由を「人々が全力を傾けて護持しようと願った」のだという。

なぜこの差異が、日常生活における永遠という時間意識を分かつことになるのだろうか。それは永遠という時間意識の再構築によるのだといえる。二つの世界大戦によって検証されたように、国民国家は、宗教に代わるものとして、永遠という時間意識を国家の中に取り組むことによって成立した国家形態だった。国民国家が成立することによって、永遠という時間意識は国家に属するものとなり、日常生活における永遠という時間意識は、成立することがむつかしくなっていく。

フェルメールの描く『ミルクを注ぐ女中』では、日常生活の隅々にまで、永遠という時間意識が漲っていたことを感じ取ることができる。しかしそのような日常生活を描くことは、18世紀以降の絵画では、不可能に近いことになるのだといえるだろう。