rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ヴァン・デル・フース――《人間の堕落》

ヒューホ・ヴァン・デル・フース(1440-1482)の描くアダムとイヴはうつろな表情をしている。 ヒューホ・ヴァン・デル・フース作《人間の堕落》(1467-68)美術史美術館 ウィーン ヴァン・デル・フースはフランドルの画家で、ブルゴーニュ公シャルルの結婚式…

セザンヌ――《数珠を持つ老婆》

セザンヌに完成作品はないのかもしれない。セザンヌにとっての完成作品は、次に描く予定の絵だった。つまり、描き終えた作品には興味を持たなかったのだ。 このようなセザンヌの創作態度を示すのは、セザンヌの伝記を書いたジョワシャン・ガスケによる次のよ…

レンブラント――《病人たちを癒すキリスト(百グルデン版画)》

イエスの言葉は過激だった。天国は幼な子のものであり、金持ちが天国に入るのは駱駝が針の穴を通るよりむつかしい。そして、先の者はあとになり、あとの者は先になる、と。これらは「マタイによる福音書」第19章でイエスが述べたことだ。 レンブラントの銅版…

レンブラントとゴッホによる《ラザロの甦り》

「ヨハネによる福音書」によると、イエスは死後四日たつラザロを復活させている。ラザロはイエスの弟子だった。以下はラザロの姉妹であるマルタとイエスの会話である。 イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。マルタは言った、「…

レンブラント――子どものおしっこ

下の絵はレンブラントの《ガニュメデスの誘拐》だ。数年前、東京に旅行したとき、おそらく国立西洋美術館だったと思うが、この絵を見ることができた。ゆるやかな螺旋を描きながらおしっこが落下していくありさまを、つぶさに鑑賞することができた。 レンブラ…

カラヴァッジョ――地上的な聖なるもの

カラヴァッジョの絵は、依頼主から受け取りを拒否されたことが幾度かある。聖なるものとして描かれるべき使徒や聖人たちが、地上的な人間として描かれたためである。 《聖母の死》も受け取りを拒否された作品の一つだ。聖母としての神々しさに欠け、人間の死…

カラヴァッジョ――《ロレートの聖母》

カラバッジョの描く宗教画の中でも、傑作の一つとされるのが、《ロレートの聖母(巡礼者の聖母)》だ。 カラヴァッジョ作《ロレートの聖母(巡礼者の聖母)》1604年頃、サンタゴスティーノ聖堂(ローマ) カラヴァッジョの描くマドンナ(聖母)は、人々を慈…

カラヴァッジョ――罪人

カラヴァッジョの描く宗教画は、神聖化された人間を描くものではなかった。どのような聖人であれ、地上2メートル以内でもがき苦しむ人間として描かれていた。 2メートルというのは、空から俯瞰する高さではなく、水平に人間を見る高さだ。その高さには、天空…

カラヴァッジョーー美青年たちと気性の激しい女たち

3月1日から6月12日まで、国立西洋美術館で『カラヴァッジョ展』が催されている。見に行くことは叶いそうにないが、せめてブログでカラヴァッジョ(Caravaggio)を堪能してみたい。 カラヴァッジョ(1571-1610)はバロック期のイタリア人画家だ。バロックは「…

イタリア・ルネッサンスの最盛期と宗教改革

ローマ教皇ユリウス2世(在位1503-1513)とレオ10世(在位1513-1521)は、ミケランジェロ(1474-1564)とラファエロ(1483-1520)を使って、ローマにあるヴァチカン宮殿とその周辺の教会をフレスコ画で飾る。下の絵はイタリア・ルネッサンスの最盛期を代表す…

アダムとイヴにはおへそがあった?

前回のブログでラファエロ作《アダムとイヴ》(1509-1511)をアップしたところ、「アダムとイブにはへそがないはずだって話を思い出してました。」というレスポンスがありました。 少し気になって、二三点調べてみました。 一枚目の「アダムとイヴ」はファン…

ラファエロを知るために――《ソロモンの審判》《アダムとイヴ》

ラファエロ・サンティ(1483-1520)は37歳で亡くなるまでに、信じられないほど多量の作品を残した。下の自画像は、23歳のラファエロとみられているものだ。 ラファエロ作《自画像》(1506年)、ウフィツィ美術館 憂いを帯びた顔だが、目の鋭さには格別なものが…

ラファエル前派は、なぜ「ラファエロ」を名乗ったのだろうか

ヴィクトリア朝時代(1837-1901)の大英帝国の美術界を牽引したラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood、1848‐1853)は、なぜラファエルという名称を自分たちのグループに用いたのだろうか。 ラファエルという名称は、盛期ルネサンスを代表するイタリア…

19世紀の格差社会

経済学者のトマ・ピケティ(1971-)によると、19世紀のジェントルマン階層やブルジョワジーたちは、平均所得の20倍から30倍の収入がなければ、困窮生活をしていると感じていたらしい。 ジェイン・オースティンの描いた『高慢と偏見』(1813年)の経済的生活…

夢見がちで、謎めいた表情というお約束

ジョン・エヴァレット・ミレイ作《オフィーリア》( 1851-52年,76.2×111.8cm テート・ギャラリー) 絵は、樹木希林によるパロディで話題になった、ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)による《オフィーリア》である。画中のオフィーリアは目を半ば閉じ…

大衆レストランにおけるワイン交換の慣習

南フランスの大衆レストランの絵をゴッホの作品の中で見つけた。アルル時代の絵で、《レストランの内部》(1887-1888年)という作品だ。テーブルにはワインの小瓶が置かれている。 レヴィ=ストロースによると、見知らぬ他者とかかわりあいにならないのがフ…

零落する辻音楽師たちの姿

www.youtube.com この楽器はハーディー・ガーディーだ。 2月21日にフィンクボーンズ作《盲目のハーディー・ガーディー弾き》(1607年)をアップした。その絵では楽器自体が鮮明に描かれていなかったので、ジョルジュ・デ・ラ・トゥール(1593-1652、フランス…

《皇帝マキシミリアンの処刑》

奇妙な絵である。エドゥアール・マネによる《皇帝マキシミリアンの処刑》(1868年、252㎝×305㎝、マンハイム市立美術館)だ。 マキシミリアンはオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世の弟で、フランスによって1864年にメキシコ皇帝に祭り上げられた人物だ…

《盲目のハーディー・ガーディー弾き》

下の絵は、ダビッド・フィンクボーンズという画家の絵だ。この画家についてのくわしいことは、ぼくにはわからない。フランドル地方の画家で、1576年にメヘレン(現在はベルギーの都市)という都市で生まれ、1633年にアムステルダム(現在のオランダの首都)…

西洋近代絵画を変えたマネの《オランピア》

エドゥアール・マネ(1832 - 1883)はスキャンダラスな画家だったとミシェル・フーコーはいう。マネのある作品は、「展覧会にやって来たブルジョワジーたちが傘でこの絵に穴を空けようとするほどまでに」、ブルジョワジーたちを激高させた。それは1863年に描…

《カード遊びをする人たち》

セザンヌは人間の個別的な顔や感情などがきらいだったんだろなとおもう。二つの『カード遊びをする人たち』を比べてみるとそんな気がしてくる。 同じ構図の絵で、一枚目はロンドンのコートールド・コレクション収蔵の絵(60×70cm)で、1892-95年頃の製作とさ…

ムトゥ(神話的本家)を築いた女按司の歌――《あだんやーぬあず(多良間島)》

多良間島に《あだんやーぬあず》というアヤグがある。アヤグというのは宮古諸島の歌謡形態をいう言葉で、神歌を除いた歌のことをいう。アヤグには英雄賛歌や生活労働歌、クイチャーなどの叙事的歌謡、トーガニアーグやシュンカニなどの抒情的歌謡も含まれる…

人間の妻に落とされた女性の怒りの歌――《イサメガ(狩俣)》

宮古島の北端に位置する狩俣集落には、イサメガ*1という女性を主人公にした歌がある。 歌の内容を要約すると、嫁と姑の諍いである。嫁のイサメガは友だちと二人で潮干狩りに行き、籠いっぱいの魚や蛸を収穫する。獲ってきた獲物を得意満面で姑に見せるのだが…

沖縄の父系親族は親族集団なのか

現在の沖縄の親族組織は、タテマエとしては父系で編成されていることになっている。一方、母系親族とのかかわりは一世代か二世代くらいまでであり、それ以降の世代には親族として意識されることは少ない。 それに反して、父系親族とのかかわりは永続的なもの…

魂呼ばい

父親の死を看取ったのは20年ほど前のことだった。 父は癌であり、再発していた。手術は二度とも国立病院で行われた。ぼくも何度か夜の付き添いをしたが、病室内ではいつも何かの器具がガチャガチャ触れる金属音がしていた。 もう助からないことがわかってか…

旅行の「旅」と出郷の「タビ」

作家の干刈あがた(1943-1992)は、両親が沖永良部島出身の人だった。東京生まれの彼女は、1963年(20歳)に初めて父母の故郷沖永良部島を訪れている。初対面の島の親族から、旅(タビ)という言葉をかけられる。それは、干刈が標準語として理解する「旅」と…

アブシバレーと曾祖母

ぼくが大学生の頃であっただろうか。隣の曾祖母の家で、曾祖母とその家の嫁、二人の会話を聞いた。 曾祖母は「今日はアブシバレーの日だよ」という意味のことを言っていた。それに対して嫁は、「もう田んぼもないのに、アブシバレーをする必要はないでしょう…

位牌とヒヌカン(火の神)に見るヤー(家)意識

1970年代の末ごろ、我が家は曾祖母の屋敷を離れることになった。どこに住まいを求めてもよかったのだが、父は東江(あがりえ)というウマリジマ(生まれシマ)にこだわり、東江のなかに新たに土地を購入し、家を新築した。 新築した家に転居する前に、兄とぼ…

曾祖母による祈り

曾祖母の住む屋敷は、敷地が200坪ほどあった。我が家はその敷地から50坪ほどを借地して建てられていた。つまり、曾祖母の屋敷のなかに我が家があったのだ。 曾祖母は敷地内で50坪ほどの菜園を持っていた。屋敷内の畑を沖縄の言葉では、アタイグヮーという。…

曾祖母と詩的言語

旧暦8月13日から15日にかけて催される東江(あがりえ)の村芝居では、ぼくたちの筵の席は、公民館広場の真ん中あたりに取られることが恒例になっていた。そこに曾祖母を中心としたぼくたち一族が陣取ることになる。 曾祖母といっても父系のつながりではない…