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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

《カード遊びをする人たち》

セザンヌは人間の個別的な顔や感情などがきらいだったんだろなとおもう。二つの『カード遊びをする人たち』を比べてみるとそんな気がしてくる。 同じ構図の絵で、一枚目はロンドンのコートールド・コレクション収蔵の絵(60×70cm)で、1892-95年頃の製作とさ…

ムトゥ(神話的本家)を築いた女按司の歌――《あだんやーぬあず(多良間島)》

多良間島に《あだんやーぬあず》というアヤグがある。アヤグというのは宮古諸島の歌謡形態をいう言葉で、神歌を除いた歌のことをいう。アヤグには英雄賛歌や生活労働歌、クイチャーなどの叙事的歌謡、トーガニアーグやシュンカニなどの抒情的歌謡も含まれる…

人間の妻に落とされた女性の怒りの歌――《イサメガ(狩俣)》

宮古島の北端に位置する狩俣集落には、イサメガ*1という女性を主人公にした歌がある。 歌の内容を要約すると、嫁と姑の諍いである。嫁のイサメガは友だちと二人で潮干狩りに行き、籠いっぱいの魚や蛸を収穫する。獲ってきた獲物を得意満面で姑に見せるのだが…

沖縄の父系親族は親族集団なのか

現在の沖縄の親族組織は、タテマエとしては父系で編成されていることになっている。一方、母系親族とのかかわりは一世代か二世代くらいまでであり、それ以降の世代には親族として意識されることは少ない。 それに反して、父系親族とのかかわりは永続的なもの…

魂呼ばい

父親の死を看取ったのは20年ほど前のことだった。 父は癌であり、再発していた。手術は二度とも国立病院で行われた。ぼくも何度か夜の付き添いをしたが、病室内ではいつも何かの器具がガチャガチャ触れる金属音がしていた。 もう助からないことがわかってか…

旅行の「旅」と出郷の「タビ」

作家の干刈あがた(1943-1992)は、両親が沖永良部島出身の人だった。東京生まれの彼女は、1963年(20歳)に初めて父母の故郷沖永良部島を訪れている。初対面の島の親族から、旅(タビ)という言葉をかけられる。それは、干刈が標準語として理解する「旅」と…

アブシバレーと曾祖母

ぼくが大学生の頃であっただろうか。隣の曾祖母の家で、曾祖母とその家の嫁、二人の会話を聞いた。 曾祖母は「今日はアブシバレーの日だよ」という意味のことを言っていた。それに対して嫁は、「もう田んぼもないのに、アブシバレーをする必要はないでしょう…

位牌とヒヌカン(火の神)に見るヤー(家)意識

1970年代の末ごろ、我が家は曾祖母の屋敷を離れることになった。どこに住まいを求めてもよかったのだが、父は東江(あがりえ)というウマリジマ(生まれシマ)にこだわり、東江のなかに新たに土地を購入し、家を新築した。 新築した家に転居する前に、兄とぼ…

曾祖母による祈り

曾祖母の住む屋敷は、敷地が200坪ほどあった。我が家はその敷地から50坪ほどを借地して建てられていた。つまり、曾祖母の屋敷のなかに我が家があったのだ。 曾祖母は敷地内で50坪ほどの菜園を持っていた。屋敷内の畑を沖縄の言葉では、アタイグヮーという。…

曾祖母と詩的言語

旧暦8月13日から15日にかけて催される東江(あがりえ)の村芝居では、ぼくたちの筵の席は、公民館広場の真ん中あたりに取られることが恒例になっていた。そこに曾祖母を中心としたぼくたち一族が陣取ることになる。 曾祖母といっても父系のつながりではない…

シマの獅子舞

夏休みも過ぎた9月のあたりに、ぼくたちのシマでは、村芝居というのがあった。旧名護町の東江(あがりえ)という集落がぼくたちのシマだった。 9月のあたりというのは旧暦8月15夜の中秋の名月のことをいう。旧暦8月13日から三日間、シマの公民館で琉球古典舞…

ナーファンチュ(那覇人)のカタクチワレー(片口笑い)

北斎の描く『琉球八景』(1833年)の一つに、「長虹秋霽」(ちょうこうしゅうせい)がある。長虹というのは長虹堤のことだ。長虹は、海に浮かぶ虹を意味する。秋の晴れた朝に橋に佇めば、虹の上に佇んでいるようであるということを意味する絵である。 長虹堤…

北斎の描く那覇

「具志堅君は知らないだろうけれど、昔の那覇は水の都だったんだよ」、物静かな口調で、こんなことを教えてもらったことがある。宴会の始まりを待つ、日常生活からハレの席に移るパサージュ(passage通過)の時間を共有しているときだった。 ぼくに話しかけ…

こどもの平等思想と正義感を育む外遊び

戦後の沖縄では、小学校から高校まで、公立の学校には学校図書館が設置され、専属の図書館員が配置されていた。1980年代に中学校の図書館司書の仕事をしたことがあった。同じ職場なので教員たちと同席することも多く、教員たちの愚痴を聞くことも少なくなか…

江戸の特産品と女性たち

宮本常一(1907-1981)の『女の民俗誌』を読んでいると、女性が田畑に出ない地方があったという記述に出会う。宮本はフィールドワークを重視する民俗学者であり、1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け、1200軒以上…

浮世絵に見る「旅する女性」

日本の女性たちは男性への従属度が低かった。江戸時代もそうだったし、明治の半ばあたりまではそうだった。江戸時代の日本は、どちらかというと母系的な社会だった。 その母系的な家族の在り方が払拭されるのは、日清戦争(1894-95)の頃だ。日清戦争に勝利…

働く女たちを描いた歌麿

女性たちが経済的自立を果たすことがなく、男性に従属的な存在にすぎないとするのは、近代西欧世界をモデルにした見方のようだ。 フランス革命後のナポレオン民法典(1804年)により、女性の財産管理権、参政権などが否定され、女性の社会的地位は著しく低下…

真に迫る悪を描いた写楽

日本の芸術の生成に関して、国文学者・民俗学者であった折口信夫(1887-1953)は、「ごろつき」と呼ばれるアウトローたちの関与が大きかったと述べている。 無頼漢(ゴロツキ)などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では…

浮世絵とポストモダン(脱近代)

弟テオへの手紙のなかで、ゴッホは印象派の人たちを「フランスの『日本人』」(硲伊之助訳『ゴッホの手紙 中』)と呼んでいる。日本人というのは浮世絵の作者たちのことだ。ゴッホは印象派を浮世絵の後継者としてとらえていたようだ。 自国では衰退したこの…

廉価品だった浮世絵

『ゴッホの手紙』を読んでいると、気になる部分が出てくる。浮世絵の値段だ。1888年に弟のテオにあてた手紙で、ゴッホは「今のところ版画は一枚三スーで手にはいる」(硲伊之助訳『ゴッホの手紙 中』)と書いている。版画というのは浮世絵のことだ。3スーと…

ゴッホと浮世絵

ゴッホは弟のテオから月150フランの仕送りを受けていたらしい。この額がどれくらいのものになるのか、正確なところはわからない。ゴッホが自分の耳を切り落とした――1889年当時の労働者の 1日の平均賃金が5フランくらいだったらしいから、労働者並みの生活…

ユダが売り渡したイエスの値段

経済人類学者のカール・ポランニー(1886-1964)によると、古代社会において、価格は変動するものではなかったということである。ポランニーは、ユダによるイエスの売買を、価格が固定されていた例に挙げる。 『新約聖書』によると、イエス売買の値段は次の…

「ゴッホは狂人ではない」――アルトーの叫び

フランスの詩人・演劇人であったアントナン・アルトー(1896-1948)は、1947年に発表した「ビンセント・ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」(鈴木創士訳)のなかで、「ヴァン・ゴッホは狂人ではない」と強く主張する。 人はヴァン・ゴッホの精神的健康につい…

堪能した青年エイサーの道ジュネー――2015年

今年の青年エイサーの道ジュネーの観察記です。8月26日(旧暦7月13日)のウンケー(お迎え)の夜は、宜野湾市宜野湾区と長田区の青年エイサーを見に行く。新聞の折り込みチラシによると、長田交差点を挟んで、宜野湾区と長田区の道ジュネーの最終演舞がある…

ゴッホ作『洗濯婦のいるアルルの吊橋』

1888年2月20日に、南フランスのアルルに引っ越したゴッホ(当時35歳)は、3月に送ったエミール・ベルナール(15歳年下の画家)への手紙で、『アルルの跳ね橋』の構想を次のように述べている。 この手紙のはじめに、僕が今ものにしようと取り掛かっている習作…

ゴッホと麦畑

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、1889年5月8日にサン・レミ(南フランス)の精神病院に入院する。この絵は入院後の6月に描かれたもので、タイトルは「麦畑(サン・レミの精神病院の裏、大きな雲)」となっている。 手前の麦畑は、少し色づいて…

なぜエイサーに惹かれるのか?

綱引きにはチナムシ(熱狂的綱好き)という言葉はある。ところがチナムシに負けないようなアディクト(熱狂的な愛好者)が、エイサーにも存在する。その熱狂的なエイサー好きをエイサー・アディクトと名付けよう。エイサー・アディクトは、多くの場合、夜の…

チョンダラー(京太郎)――イフーナムン(異風な者)

エイサーには道化役のチョンダラーが付きものである。チョンダラーとは京太郎の意味で、もともとは門付け芸人のする簡単な人形芝居のことを指していたらしいが、それが人形をする演者のことも指すようになったものである。チョンダラーのコスチュームは地域…

お引っ越し

おはようございます。ブログの引っ越しを検討中。

噛む、噛まない――沖縄の綱引きに見るバイオレンスの昇華

「精神の生態学」を提唱したグレゴリー・ベイトソン(1904 – 1980、アメリカ)は、人間に安心感を与え、他者との友愛関係が築かれるのは、前言語的なレベルでの精神プロセスによるものだという指摘をした。 前言語的なレベルの精神プロセスというのは、動物…

だんくもーいーー世冨慶(よふけ)の手踊りエイサー

沖縄市を中心にした太鼓型エイサーは、1950年代から60年代にかけて発達したもので、それ以前のエイサーは、そのほとんどが(太鼓が踊ることなく伴奏楽器であった)手踊り型だったとされる。手踊り型では、太鼓の響きよりも、踊り手たちの歌の返しが重…

ボーイとの日々

マンション和室の障子の古ぼけたシミを、ボーイは自分が赤ん坊の時につけたシミだと言った。ボーイがママといっしょにマンションを訪ねてくるようになった3回目の時だ。ぼくたち夫妻はたわむれに、ボーイは赤ちゃんのときに、この部屋でハイハイしていたんだ…

国頭村安田(あだ)紀行(3)

ヤンバル(山原)東周りのコースは、海沿いを走ることが少ない。道路はたまに海岸沿いのルートに出会うだけで、残りのほとんどは丘陵地帯で、アップダウンを繰り返すことになる。この地域の交通手段は、もともと海上交通が中心だった。山原船(やんばるせん…

国頭村安田(あだ)紀行(2)

辺野古の集落を出ると、キャンプ・シュワブを横切って、隣の二見(ふたみ)集落へと降りていく。二見集落には降りていくという形容があてはまる。台地状の辺野古崎から海辺の二見まで、道は奈落を降りるように山肌を蛇行していくのだ。 道路の両脇に生い茂る…

国頭村安田(あだ)紀行(1)

7月19日午前10時15分、宜野湾のマンションを出る。目的地は沖縄本島東海岸にある国頭村の安田(あだ)の集落。一泊二日の小旅行の予定だ。宜野湾から安田までは、七、八十キロメートルくらいの距離がある。客体化された距離は七、八十キロメートルだが、通時…

贈与論ーー女性の交換

マルセル・モースは「〔われわれを除く〕すべての社会において……中庸というものは存在しない」という。モースのいう「われわれ」とは19世紀以降の現代社会のことだ。つまり、「われわれ」以外の社会では、敵でもなく味方でもない存在(=中庸)は存在しない…

贈与論ーー全体的給付体系と非市場社会

モースは、近代以前の社会では、個人間の経済的な取引きは成立することはなかったと指摘している。つまり、需要供給の原則に基づく市場というものは存在しなかったのだと指摘しているのである。それではどのようにして人々は、物の交換をしていたのだろうか…

社会的父――イザベラ・バードの『日本奥地紀行』より

6月7日にアップした『贈与論――社会的父』で、マリノフスキから引用して育児に専念するトロブリアンド諸島の父親たちの姿を紹介した。イザベラ・バード(1831-1904)の『日本奥地紀行(1885)』を読んでいると、それに良く似た育児風景が日本にもあったことが…

贈与論――贈与の霊ハウ

モースの『贈与論(1925)』でキー概念となるのは、贈与のサイクルを循環させ続ける「ハウ(hau)」という贈与の霊だ。このハウとは何かを解くことによって、モースの『贈与論』は書き進められていくことになる。次に引用するのがハウに関する部分である。 物…

贈与論――社会的父

マリノフスキはクラ交易以外に、ヨーロッパの社会科学にもう一つの大きな発見をもたらすことになる。それは「社会学的父(sociological father)」としての父親の存在の発見である。 社会学的父というのはマリノフスキによる造語で、父親の存在意義や役割を生…

贈与論――クラ交易

マリノフスキ(1884-1942)による『西太平洋の遠洋航海者たち(1922)』が出版されたのは、モースの『贈与論(1925)』に先立つ3年前のことだった。そこにはポトラッチとは異なる、クラ交易という贈与交換の形態が詳細に記されていた。贈与論を構想していた…

美しい皺の消滅

エドワード・カーティス撮影による1890年代末から1920年代にかけての北米インディアンの写真を眺めていると、ぼくたちは高齢のインディアンの美しい皺に出会うことになる。その美しい皺に出会うたびに、ぼくはある言葉を思い出す。それは正確には思い出せな…

北米インディアンとスワドリング

エドワード・S・カーティス(1868-1952)撮影による北米インディアンの写真を眺めていると、ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)が教育書『エミール(1762)』で痛烈に批判したスワドリング(swaddling)に似た育児風景を多数発見することになる。スワドリングと…

贈与論――ポトラッチ

モースの『贈与論(1925)』は、ポトラッチpotlatchを基点にして展開されている。ポトラッチというのは、莫大な富や食物の贈与が行われることで知られる北アメリカ北西沿岸インディアン諸族の儀式のことをいう。 北西沿岸インディアンというのは、次の地図に…

聖なるものと狂気

フーコーの『狂気の歴史』をぼくなりに理解すると、次のようなものになるだろう。はじめに闇夜の静けさがある。その静けさは魑魅魍魎によって満たされ、ざわめいている。人間たちはその魑魅魍魎と折り合いをつけて、昼間のあいだだけを、そして自分にとって…

ゴヤの『妄』と『黒い絵』

スペインの宮廷画家だったフランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)は、フランス革命(1789)を挟み二つの時代を生きた芸術家だった。二つの時代というのは、理性が絶対王政と争っていた時代と理性が勝利した時代のことだ。19世紀に決定的になった理性の時代に、…

宮廷風恋愛から結婚契約、恋愛結婚へ

恋愛という愛の観念は、普遍性をもつものではなかった。それは中世騎士道のなかで誕生した愛の観念だった。 騎士道は12世紀から13世紀にかけてのヨーロッパで誕生したものだった。騎士になるものの多くは、領地を継げない次三男たちだった。彼らは戦争によっ…

監禁からの解放とケアの家族化

フーコーによると、ヨーロッパの産業化された社会では、17世紀後半に「大監禁」の時代が始まるとされる。監禁されたのは、「精神病者だけでなく、失業者や不具者や老人など、すべて働けない者」たちだった。 十七世紀頃から産業社会が形成されはじめ、このよ…

多いなる監禁と市民社会

次の絵は17世紀オランダの画家、フランス・ハルス(1580-1666)による『養老院の女理事たち』(1664)である。英語のタイトルでは、養老院はOld Men's Almshouseとなっている。老人用救貧院という意味である。 この絵に関して、異なる二つの解釈がある。一つ…

慈善(チャリティ)の変化

16世紀の宗教改革の時代に入って慈善の意味は変化した、とフーコーは言う。貧乏人、悲惨な者、自分自身の生存に責任をもつことのできない者に慈善を施すのは、中世までは、富裕者自己自身の救霊を意味していた。しかし、宗教改革によって、慈善は救霊という…