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rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

てぃーだブログの「ぷかぷか」に引っ越しました

はてなブログの「rapanse’s diary」は、

4月30日から、てぃーだブログの「ぷかぷか」に引っ越しました。

引き続きご笑覧ください。

ホルバイン――《大使たち》

ホルバインが1533年に制作した《大使たち》では、二人の男性の足下に浮遊する奇妙な物体が描かれている。それは「アナモルフォーズ(歪像画)」の技法によって描かれた髑髏(どくろ)だ。

髑髏は、ヴァニタス(虚栄)を表わす寓意だ。ヴァニタスという言葉は、現世の財産や知識は全て虚しいものであり、時は全てを奪い、死には現世のどんなものも逆らえない、ということを意味している。

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ハンス・ホルバイン作《大使たち》(1533年)ナショナルギャラリー(ロンドン)

二人の男性の足下に浮遊する奇妙な物体を、斜め左下から見ると、このように見えるという。

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同じような主題を扱った木版画集《死の舞踏》(1524-26)では、死は人間たちの世界に遠慮なく介入し、ある意味では人間たちと同じ次元の水準にいた。《大使たち》では《死の舞踏》のような強権的な介入はない。左下から眺めないと、その奇妙な物体は姿を現さないのである。

次の絵はホルバインによる《死の舞踏》シリーズの一枚だ。「死」は王冠を付けた女王に墓穴を指し示す。死が間近に迫っているので、死に向かう準備をせよと促しているのだ。強権的ではあるが、ある意味では親切でもある。《大使たち》における髑髏は、このような「死」とは異なる。

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フランスの精神分析ジャック・ラカン(1901-1981)によると、この奇妙な物体は、絵を鑑賞し終えてから振り返ったときに、視ることのできるものだという。

先回「虚栄vanitas」との共鳴や繋がりを指摘したこの絵、着飾り凍りついたように立ちつくす二人の人物の間に、当時の見方からすれば、技芸と科学の虚栄を思い出させるあらゆる物を配したこの魅惑的な絵、この絵の秘密が示されるのは、この絵から少し離れてもう一度振り返ったときだからです。そのとき、この浮かんでいる不思議な対象が何を意味しているかが解ります。この対象は髑髏という形で我われ自身の無を映し出すのです。
ジャック・ラカン(小出浩之他訳)『精神分析の四基本概念』

振り返らないと死は出現しない。死はもはや人間たちと同じ次元の世界には出現しない。宗教改革が過激化するなかで、ナイーブに死のもつ力を信じる時代は、過ぎようとしていたのだ。

人間たちは相変わらず死から逃れることはできなかった。メメントモリ(死を想え)のように、人間の無常観から天国に至る道を準備するという死への向かい方ができなくなったのだ。人間たちは死と同居することはできなくなっていた。それは現代社会でも変わりはない。人々は不死であるかのように生きている。死に向き合うすべを失っているのだ。

ラカンは、この絵の放つメッセージを二つ述べる。一つは去勢であり、もう一つは出会い損ねだ。

精神分析において去勢は、人間から万能感を取り去ることを意味する。万能感をもっているあいだの人は乳幼児と同じで、まだ社会的存在としての「人間」にはなっていない。万能感を去勢されることによって、人は社会性を獲得し、「人間」になるのである。

ラカンによると髑髏は、像によって実体化された「去勢」を意味するものだった。

主体というものが輪郭を取りはじめ、実測光学が探求されるまさにその時代のさなかに、ホルバインはあるものを我われに見えるようにした……。それは無化されたものとしての主体にほかなりません。無化されたと言いましたが、正確に言うとここでは、去勢……を像によって実体化するという形での無化です。
ジャック・ラカン(小出浩之他訳)『精神分析の四基本概念』

ラカンの解釈は、それだけにとどまるものではなかった。視る者と見られる者という「目と眼差しの弁証法」を、この絵にみるのである。

ラカンによると、「私」を視る眼差しが「あらかじめすでに存在している」のだという。それなのに「私」は一点しか見ることができない。そこに「私の目」と「私を視る眼差し」との出会い損ねが生じる。

眼差しはあらかじめすでに存在しているということです。つまり、私は一点だけから見ているのに、私は私の存在においてあらゆる点から見られているのです。(同前)

《大使たち》で髑髏は、鑑賞者の視点を惹きつける一点になる。しかしその髑髏を見つめたところで、あらかじめ存在する眼差しと一致することはできない。髑髏はルアー(疑似針)の役割しか果たさないのである。目と眼差しは、必然的に出会い損ねることになる。

最初から我われは、目と眼差しの弁証法にはいかなる一致もなく、本質的にルアーしかないということに気づいていました。愛において、私が眼差しを要求するとき本質的に満たされずつねに欠如しているもの、それは「あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない」、ということです。
逆に言えば、「私が視ているものは、決して私が見ようとしているものではない」ということです。(同前)

「愛」を「神」に置き換えてみる。そうすると、ルアーである髑髏をいくら見つめたところで、神が視えるわけではないということをラカンは述べていることになる。そして、「神(=あらかじめすでに存在する眼差し)」は決して、髑髏を見つめる「私」を視ないだろうということになる。

《大使たち》における髑髏は、《死の舞踏》における「死」と異なり、人間たちに無関心であり、無関係なものとして存在する。死は遠いもの、掴みがたいものとなり、人間たちはそれだけ、より深く去勢されなければならないものとなったのである。

(続く)

 

 

 

 

 

 

ホルバイン――《商人ゲオルク・ギーゼの肖像》

ホルバインは多数の肖像画を描いているので、肖像画家だと理解されることが多い。しかし初期の作品には、《墓の中の死せるキリスト》(1521)、版画集《死の舞踏》(1524-25)、《キリストの受難の祭壇画》(1524-25)などの宗教的テーマの絵もいくつか見られる。

《キリストの受難の祭壇画》は次のようなものだ。

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ハンス・ホルバイン作《キリストの受難の祭壇画》(1524-25年)バーゼル市立美術館 (スイス)

ホルバインは、宗教的なテーマを描かなかったのではない。そうではなく、宗教的なテーマを描いた作品は、聖像破壊運動でそのほとんどが破壊された可能性があるのだ。

幸か不幸かホルバインの作品には、数多くの肖像画が残ることになった。その膨大な肖像画の中から、3点を選んでみた。はじめの2点は歴史的にも著名な人物たちだ。エラスムス(1466-1536)とトマス・モア(1478-1535)である。

この2点は、《画家の家族の肖像》(1528-29)が描かれる前の作品だ。《画家の家族の肖像》以降、ホルバインの肖像画に変化が現れる。歴史に名を残すような著名な人間を描くのではなく、世俗的な仕事をしている生活者の表情を描くようになるのだ。

それが3点目のドイツ商人ゲオルク・ギーゼの肖像だ。このような生活者の肖像は、晩年のホルバインには見られなくなるが、ホルバイン中期の到達点を示すものだといえるだろう。

肖像画の1点目は、1523年にホルバインが描いたエラスムスの肖像だ。

エラスムスネーデルラント出身の人文主義者でカトリックの司祭だった。1511年に刊行された『痴愚神礼讃』はベスト・セラーになり、ルターに大きな影響を与えたとされる。

ルターが自分を尊敬し、自分の著作に影響されていたことを知ったエラスムスは当初、ルターとその「聖書中心主義」思想に対して好意的な態度をとっていた。しかし、エラスムスは教会の分裂を望んではいなかった。そのためルターとたもとを分かつことになった。

エラスムスプロテスタント運動を避けて、1521年にバーゼル(スイス)に移住した。その当時のバーゼルカトリックの都市だったのである。エラスムスの移住は、バーゼルで画家として活動し始めていたホルバインの、20代前半のことだった。

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ハンス・ホルバイン作《エラスムスの肖像》(1523年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)

1526年、ホルバインはエラスムスの紹介で、トマス・モアを頼ってロンドンへ渡った。

トマス・モアはイングランドの思想家で、キリスト教の殉教者としてカトリック教会と聖公会で「聖人」となっている。政治・社会を風刺した『ユートピア』(1516年)の著述で知られている。

次の絵は、イギリスに渡った翌年に、ホルバインが描いたトマス・モアの肖像だ。

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ハンス・ホルバイン作《トマス・モアの肖像》(1527年)フリック・コレクション(ニューヨーク)

ホルバインは20代で、当時のヨーロッパを代表する知識人である二人と出会っている。このような出会いが可能であったのは、中世以来のヨーロッパでは、知識人にとってラテン語が共通の言語であったからだ。

エラスムスの『痴愚神礼讃』もトマス・モアの『ユートピア』も、ラテン語で記されていた。そのような共通言語を持っていたので、国や民族の違いは、親交を深めるさいの大きな障壁にならなかったのだ。

ホルバインがラテン語に堪能であったのかはわからないが、トマス・モアは、親友であるエラスムスから、ホルバインのパトロネージュ(支援)を依頼されていた。そのためホルバインは、イングランドに拠点を移すことができたのである。

当時のイングランドにはドイツの商人も大勢移住していた。ホルバインの肖像画で印象深い次の肖像画は、イングランドで活動するドイツ商人の肖像だ。

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ハンス・ホルバイン作《商人ゲオルク・ギーゼの肖像》(1532年)ベルリン美術館

ホルバインが二度目にイングランドに渡ったときの作品だ。前の2作と比べるとわかるが、宗教的な作品でもなく、歴史上著名な人物の肖像でもない。作品を語るための大きな物語は、外されているのだ。それでもこの作品は、宇宙論的な確固とした人間存在を描いているのだ。雄弁にではなく、無言の内にだ。

《画家の家族の肖像》(1528-29)では、悲しげで不安そうな人間存在が描かれていた。《商人ゲオルク・ギーゼの肖像》(1532年)では、そのような不安は乗り越えられている。聖像破壊運動による恐怖を乗り越えて、宗教改革とは異なる視点で、ホルバインは人間存在を描こうとしたのだ。

カトリックなのかプロテスタントなのかという問題は、この作品においては、乗り越えられている。どこでホルバインは、そのような現世的な争いを乗り越えることができたのだろうか。

それは《大使たち》(1533年)に描かれた髑髏によって、明らかになるだろう。

(続く)

ホルバインと聖像破壊運動

次の絵は、ハンス・ホルバインが自分の家族を描いたものだ。ヨーロッパの絵画で親密な家族の姿が描かれるようになるのは、17世紀になってからのことだ。一般的に16世紀の家族の肖像画は、一族や一門を描くもので、家族間の親密な情愛が描かれることはほとんどなかった。

ホルバインの描く家族は、16世紀初頭のものだが、一族意識や一門意識を描くのではなく、親密な情愛が感じられる絵となっている。このような絵は、「家族の肖像画」としては、きわめて早い時期に属する。

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ハンス・ホルバイン作《画家の家族の肖像》(1528-29年)バーゼル美術館(スイス)

ホルバインは1526年に、単身でイングランドに渡り、1528年にいったん帰国している。その帰国中に描かれた絵だ。

妻は悲しげなまなざしでうつむき、子どもたちは不安げな表情を見せている。これは夫であり父親であるホルバインの3年にわたる不在を悲しむ絵なのだろうか。

夫の不在を悲しむとしたら、それは家族構成員が掛け替えのないものとなっている現代的な家族意識に近いものだといえるだろう。

しかし16世紀のヨーロッパでは、親密な情愛によって結ばれた家族は、まだ成立していなかった。

16世紀のドイツ語には、親子集団を示す固有の言葉が欠けていた。M.ミッテラウアーとR.ジーダーによると、現代ドイツ語の「ファミーリエ」は、18世紀に始めて一般的な言葉として浸透するということだ。

現在のドイツ語の「ファミーリエ」は、18世紀に始めて一般的な言葉として浸透する。この言葉は、フランス語の「ファミーユ」からくるものであり、……したがって18世紀に、西欧では核家族がはっきりとした特徴をもってまず存在したのにたいし、中欧では特別な単位として明確な形をとるには時間がかかったといえる。中欧では、独自の用語が欠けていたために、フランス語から借用して、この言葉が広がっていった。
M.ミッテラウアー/R.ジーダー(若尾祐司他訳)『ヨーロッパ家族社会史』

家族(ファミリー)という言葉は、古くは名立たる家系や一族を意味する言葉だった。17世紀にそれが、「一緒に暮らす家族」を意味するものへと変化していく。ドイツでは、「一緒に暮らす家族」という意味での家族意識が確立されるのは、18世紀に入ってからのことだった。

ホルバインが16世紀初頭に描いた家族は、悲しげで不安げな表情をしている。それを17、18世紀以降の感覚で、父親の不在によるものだととらえることはできない。他にも要因を考えることができるのである。

それは16世紀のヨーロッパで起きた、聖像破壊運動(イコノスクラム)である。

宗教改革で、原理主義的なプロテスタントがキリストや聖人の画像は偶像に相当するとして教会に飾ることを禁じた。

ジュネーヴアントワープでは、教会がプロテスタントの掠奪に遭い、中世とルネサンスの貴重な美術作品が大量に破壊された。チューリッヒでも、宗教改革運動に触発された民衆が教会に入り、祭壇や像を打ち壊した(1523年)。

ホルバインがプロテスタントカトリック教徒であったかは不明である。

生まれ故郷のアウクスブルク(南ドイツ)はカトリック信者の多い都市であったが、ルター派の根拠地ともなり、両派の激しい対立があった。

ホルバインが画家として活躍したバーゼル(スイス)は、商業都市でもあり信仰的にも栄えた町であったが、1521–23年にかけてプロテスタントによる聖像破壊で打撃をうけた。ホルバインの作品もその対象となり、初期の作品を除くバーゼルでの作品は、ほとんどが破壊されたものとみられている。

次の2枚の絵は、無名の画家が描いた聖像破壊運動のルポルタージュである。ホルバインがカトリック信者だったとすると、ホルバイン自身が攻撃される対象になる。1526年に単身でイングランドに移住した理由もそこにあり、ホルバインが1528年に一時帰国したときの家族の不安げな表情も、そこにあるのだといえるだろう。

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1523年のチューリヒにおける道端の十字架の破壊の描写

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1530年のドイツの木版画ルター派の破壊は、判事や領主の指揮により整然と行なわれた。飾りのない祭壇だけが残った。

ホルバインが画家として活躍していたバーゼルは、1528年には宗教改革の流れの中でカトリックの司教を追放し、プロテスタント勢力の一員となった。ちょうど《画家の家族の肖像》が描かれた時期であった。家族の不安な面持ちは、それに由来するものだといえるだろう。

ホルバインは1532年に、再び単身でイングランドに渡っている。その頃までのイングランドは、カトリックの国だったのである。イングランド国王ヘンリー8世は、ローマ教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であった。

(続く)

ホルバイン――《バーゼル市長ヤーコプ・マイアーの聖母》

ハンス・ホルバインは南ドイツのアウクスブルクで生まれ、修業時代に各地を遍歴し、1515年(17歳)頃からバーゼルルツェルン(ともにスイス)で画家として活躍していた。

ホルバインは、1526年からロンドンに移り住む。バーゼル時代の最晩年の作品として、《バーゼル市長ヤーコプ・マイアーの聖母》を制作する。

この絵は、死後の魂の救済を願う宗教画であるとともに、「家族の肖像画」の先駆をなすものでもあった。

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ハンス・ホルバイン作《バーゼル市長ヤーコプ・マイアーの聖母》(1526年)ダルムシュタット城美術館

聖母マリアの足下には、バーゼル市長ヤーコプ・マイアーの「家族」が描かれている。この「家族」は、現在のぼくたちがイメージする家族像とは、異なっていた。フランスの歴史家フィリップ・アリエス(1914-1984)によると、この「家族」には三人の死者が含まれていたのである。

絵の中の六人のうち三人は1526年にはすでに死亡していたことが知られている。それは最初の妻ヤコブ・マイヤーと彼女の二人の息子であり、一人は十歳で死去、もう一人はもっと若いうちに亡くなったのだが、この最後の者は裸体である。
フィリップ・アリエス(杉山光信他訳)『〈子供〉の誕生』

最初の妻ヤコブ・マイヤーは、右側の頭巾で顔を覆った女性であり、彼女の二人の息子は、左側のヤーコプ・マイアーの足下に描かれている。

「死んだ子供の肖像画が十六世紀に出現したこと」は、「感性の歴史の中では非常に重要な一時期を画している」のだとアリエスは言う。

人口学的にみて生命の浪費されたこの時期に、生き残るにせよ死んでしまったにせよ、子供の外観を思い出に残そうとする願望が感知されていたというのは、きわめて注目に値することである。特に死んだ子供の肖像画は、もはや一般的にも子供が避けがたい消耗品として考えられてはいないことを示している。……死んだ子供の肖像画が十六世紀に出現したことは、したがって感性の歴史の中では非常に重要な一時期を画しているのである。(同前)

死んだ子供をしのぶということは、感性の大きな変化を意味することだった。幼児死亡率が高かったため、小さな子供は、「数に入っていなかった」のである。

アリエスは、フランスの人文主義モンテーニュの乳幼児への無関心さについて言及する。

小さな子供は死去する可能性があるゆえに数のうちには入っていなかったのである。「私はまだ乳呑み児であった子供を二、三人亡くした。痛恨の思いがなかったわけではないが、不満は感じなかった」と、モンテーニュは述懐している。(同前)

亡くした子供の数が「二、三人」というアバウトな表現であるところに、モンテーニュの乳幼児への無関心さがあらわれている。

 ここで留意しなければならないのは、モンテーニュの時代を経てホルバインの絵があるのではなく、ホルバインの絵の制作から60年前後経過して、モンテーニュの『エセー』が発行されるということである。

モンテーニュの時代との前後を取り違えてしまいそうになるほどに、ホルバインの絵は、その感性が新しかったのである。

(続く)

 

 

 

 

 

「死」の側から人間たちの世界を描いたホルバイン

ハンス・ホルバイン(1497/98 - 1543)は、「死」の側から人間たちの世界を描くことのできる画家だった。代表作とされる《墓の中の死せるキリスト》で描かれているのは、死後三日たったイエスの亡骸だ。亡骸の腐敗と衰退を、ホルバインは写実的に克明に描写している。

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ハンス・ホルバイン作《墓の中の死せるキリスト》(1521-22年頃)バーゼル美術館

ホルバインがこの絵を制作した1521年に、ルターはカトリック教会から破門され、ルター支持派とカトリック教会との分裂が決定的なものになっている。そのような教会の大分裂の時代に、ホルバインは教会を挑発するような絵を描いた。

キリストの復活は、キリスト教における最も基本的な宣教の内容を形成しており、キリスト教神学の中心的位置を占めている。そのキリストの肉体的な復活を疑わせるような絵を、ホルバインは描いたのだ。

死についてのホルバインの見方は、木版画集《死の舞踏》(1538年)を見ると明らかになる。この版画集に描かれた世界では、死から逃れることのできる人間は誰もいない。金持ちも貧乏人も、聖職者、権力者も死から免れることができない。

《死の舞踏》の下絵は、1524年から26年にかけて作成され、1538年に41枚の図版で、セットで発売された。下の絵はその中のひとつで、貴婦人が描かれている。

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「死」は、貴婦人のダンスの伴奏をしている。しかし、絵の右下には砂時計が置かれ、貴婦人の死が間近なことを告げている。

次の絵は、農夫を描いたものだ。版画の下絵が制作されていた頃には、農奴状態からの解放を求めて、ドイツ農民戦争(1524-25年)が起こっていた。

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遠くで教会は輝いている。教会の輝きは農民には届かない。畑の長い畝がどこで尽きるのかは、絵で確認することはできない。盛り上がっていく畝は、建物の手前で下っていく。どこまでこの畝が続くのかわからないように描かれている。

重労働によって、農民の顔は暗く陰っている。疲労困憊しているのだろう。足取りもおぼつかなげに見える。農民の死期を早めるために、「死」が馬たちに鞭を入れている。

(続く)

 

グリューネヴァルト――《イーゼンハイム祭壇画》

マティアス・グリューネヴァルト(1470/75-1528)は、デューラーやクラナハとともに、ドイツ・ルネサンス3大巨匠の一人に数えられている画家だ。

グリューネヴァルトは《イーゼンハイム祭壇画》の中で、イエスの磔刑の姿を描いた。それは鑑賞者にリアルな痛みを感じさせる絵だった。

《イーゼンハイム祭壇画》は3面からなる。「磔刑」はその第1面の中央パネルに描かれていた。

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マティアス・グリューネヴァルト作《イーゼンハイム祭壇画》第1面(1511-15年頃)ウンターリンデン美術館

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磔刑」の細部

この絵はデューラーの《騎士と死と悪魔》《メランコリアⅠ》と同様に、ルターによる宗教改革(1517年)を準備した絵だといえるだろう。

第1面は、祭壇画の扉絵だった。つまり、表に出ている部分だった。

イエスの痛ましい姿は、人間たちの罪の重さを物語るものだった。鑑賞者が日常的に見ることのできるのは、イエスの痛ましい姿だった。このイエスの姿が、礼拝の日曜日には扉が開き、第2面の晴れやかな絵に変わる。

第1面では、イエスの痛ましい姿にシンクロし、第2面ではイエスの輝かしい復活をみることになる。この落差が鑑賞者に義憤を湧き立たせる。その義憤が、社会変革を求めるエネルギーに転化されていくのだ。

《イーゼンハイム祭壇画》は二重の観音開きの構造をしていた。ご本尊は聖アントニウスの彫像で、この彫像の祭壇として描かれたものだった。「磔刑」の絵は、扉を閉めた状態の第1面に描かれたものだった。

日曜日には祭壇画の第2面が開帳された。

第2面は、「受胎告知」、「天使の奏楽」、「キリストの降誕」、「キリストの復活」から成っていた。

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《イーゼンハイム祭壇画》第2面

「キリストの復活」では、傷だらけだったイエスが、輝く球体を背景にして、死からの復活を遂げる。傷だらけのイエスは、日曜日ごとに復活を遂げるのだ。

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中央パネル左側の「天使の奏楽」は、「キリストの降誕」を喜ぶものだ。天使たちに混じって、奇妙な姿をしたものも奏楽に参加している。全身が羽毛で覆われているのだ。

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この羽毛に覆われた奇妙な演奏者は、キリスト教的な存在ではなく、おそらく森の精霊なのだろう。グリューネバルトの感受性の中には、ドイツの森の精霊たちがまだ息づいていたのだろう。中世ドイツ社会は、深い森に包まれていた。

第2面の扉をさらに開くと、第3面のご本尊が現れる。この画面は、聖アントニウスの祭日のみに公開された。

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《イーゼンハイム祭壇画》第3面

第3面の右翼のパネルは「聖アントニウスの誘惑」である。

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哲学者のミシェル・フーコーによると、この奇怪な怪物たちは、「人間のかくされた自然本性の姿」だった。

文芸復興期になると、動物性との関連が転倒して、動物は解き放たれ、伝承と道徳訓の世界から逃げだしてそれ固有の幻想性を手に入れる。こうして、驚くべき転倒によって今や動物のほうが、人間の動静をうかがい、彼を捕えて彼本来の真理を知らせようとするのである。錯乱した想像力から生れた奇怪な動物が、人間のかくされた自然本性の姿となった。……たとえばそれは、……グリューネヴァルトの『聖アントワーヌの誘惑』(イーゼンハイム祭壇画の一部)にあらわれる筋ばった手の猛禽類である。
ミシェル・フーコー(田村俶訳)『狂気の歴史』

中世的価値観が解体していくルネサンス期には、人間の本性は動物的なものに変化していく。 第1面の「磔刑」では、イエスの身体に痛ましい傷口が刻まれている。それは第3面で、聖アントニウスに襲いかかる動物たちによって刻み込まれた傷口だといえるだろう。

イエスを傷つけたものたちの正体が、年に一度の聖アントニウスの祭日のときに、明かされるのである。