rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

ブリューゲル・子どもの遊び:洗礼の行列と目隠し鬼

《子どもの遊び》の左下に描かれているのは、洗礼の行列と目隠し鬼だ。

下の四人は、洗礼の行列遊び。生まれたての赤ん坊に洗礼を受けさせるのだ。先頭は産婆で次に母親、あとの二人は子どもの名付け親。

赤ん坊にはヴェールがかぶせられている。ヴェールは悪魔から身を守る。行列の四人はずだ袋やスカートをヴェールにしてかぶっている。

名付け親である三人目は、両手に贈り物をもっている。これは人間を助ける自然の善霊への贈り物だ。

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ピーテル・ブリューゲル(父)《子どもの遊び》(細部)1559-60年、美術史美術館(ウィーン)

上の遊びは目隠し鬼ごっこ。恐ろしい鬼の目の魔力に射抜かれないようにするために、鬼に目隠しをする。子どもたちは鬼が近づくと「火だ、火だ」とはやしたてる。魔女を火あぶりにした時にも、目に射抜かれないために、魔女に目隠しをしたからだ。

目隠し鬼は冬を追い払う象徴的な儀式でもある。鬼は冬の化身で、夏の日で冬の目を射抜くのだ。(カシュ・ヤーノシュ編『ブリューゲル・さかさまの世界』より)

ヨーロッパでは16世紀後半から17世紀にかけて魔女狩りのピークを迎える。ブリューゲルが《子どもの遊び》を描いた頃は、魔女狩りのピークの時期にあたる。そのような時代背景が、子どもの遊びにも反映していたのかもしれない。

ブリューゲル・子どもの遊び:婚礼の行列

カシュ・ヤーノシュ編(早稲田みか訳)『ブリューゲル・さかさまの世界』(1988年、大月書店)という本を図書館から借りてきた。

ハンガリーの編集者たちがハンガリーの子どもたちのために造った本のようだ。ブリューゲルの《子どもの遊び》《ネーデルランドのことわざ》《バベルの塔》の細部がていねいに説明されている。

この三つの絵は百科事典のような絵で、多くの細部から成り立っている。細部のそれぞれが独立した作品で、それが有機的につながって一つの作品世界を創り出しているのだ。

その作品世界には、手引きがないとなかなか入れない。この本に手引きしてもらって、ブリューゲルの描きだした世界を読んでいこう。

全文引用すると少し長くなるので、書かれたことを自分なりに簡略にまとめている。

初めは《子どもの遊び》の中の「婚礼の行列」だ。

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ピーテル・ブリューゲル(父)作《子どもの遊び》1559-60年、美術史美術館(ウィーン)

この絵の中央に「婚礼の行列」が描かれている。

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婚礼の行列

冠をかぶった花嫁さんにみんなが教会まで付き添って行くところ。髪を肩まで垂らしているのは、まだ娘であるという印。横には二人の付き添いがつき、前には花を振りまく少女が、後ろにはお客さんたちが間をあけずに続く。隙間をあけると悪魔が入り込むとされ、一人の女性が手を広げて列を守っている。

この絵は婚礼の行列であるとともに、豊作を祈る五月の精霊降臨祭の行列でもある。五月の女王が選ばれ、天の花嫁として村の家々を訪れる。

ハンガリーでは、少女たちが「赤、白、黄色、神の御子に花をふりかけよ」と唱えながら、バラの花をふりまき、二人の付き添いが「麦も麻も、こんなに大きくなあれ」と女王様を高々と持ち上げるということだ。

子どもたちは、春を祝うために村を訪れる、神々の一行だったのだ。

悪魔を退治する女たち:《狂女フリート》

ピーテル・ブリューゲル(父)の描く《狂女フリート》。台所道具を腕いっぱいに抱えたフリートが阿鼻叫喚の地獄のような風景の中を、悪魔退治にお出かけだ。フリートに従う者は頭巾をかぶりエプロンを着けた主婦たちだ。主婦たちは悪魔さえも押さえつけ、縛り上げてしまう。

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ピーテル・ブリューゲル(父)《狂女フリート》(細部)1562年頃、マイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館

男性の兵士たちは安全な場所から見守っているだけだ。

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《狂女フリート》(全体)

宗教改革から45年が経過して、フランドル地方宗教戦争が勃発しそうな緊迫感に包まれていた。カトリック側にもプロテスタント側にも悪魔を倒す力はない。悪魔を倒せるのは、台所にいる無学な女たちだ。小賢しい理性は何の役にも立たない。ブリューゲルのそんな怒りが聞こえてきそうだ。

ロヒール・ファン・ウェイデン作《十字架降架》

《十字架降架》(1435年頃)は初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・ウェイデン(1399/1400-1464)の代表作だ。

この絵の衝撃力は聖母マリアの姿にある。

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ロヒール・ファン・ウェイデン作《十字架降架》1435-38 年、 220 cm × 262 cm、 プラド美術館

画面中央のイエスの痛ましい姿とともに、イエスと同じ姿勢をとってマリアが倒れかけている。イエスの右手の下にはマリアがおり、マリアの右手の下には、しゃれこうべがある。マリアはイエスの死をリフレインしているのだ。

死体となったイエスを抱きとるのではなく、イエスとともに崩れるマリアの姿は印象的だ。なぜ気絶しそうな弱々しい女性としてマリアを描いたのだろうか。

この謎を解く鍵は、騎士道のマリア崇拝にありそうな気がする。

中世騎士道では聖母マリア崇敬が高まりを見せていた。騎士道文化が花開いたのは初期フランドル派が活躍したフランドル地方を領地とするブルゴーニュ公国の宮廷だった。

ブルゴーニュ公国の王侯貴族たちは聖母マリアと対になる2連自画像を画家たちに描かせていた。

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ロヒール・ファン・ウェイデン作 《フィリップ1世ド・クロイの2連肖像画》1460年頃、 アントウェルペン王立美術館

聖母マリア崇拝がマリアを人間的な存在にし、悲痛に崩れ落ちるマリアの姿を描かせたのではないだろうか。

ロベルト・カンパン《女の肖像》

初期フランドル派の先陣を切るのはロベルト・カンパン(1375-1444)だ。

この絵はミドルクラス(中産階級)の女性を描いたものだ。白い頭巾に挿したピンにいたるまで、精緻な描写で描かれている。

歴史家の阿部謹也によると、西欧で女性たちが職場から締め出されるのは、宗教改革の前後のことらしい。

阿部謹也 これは私の考えですが、15世紀の末にドイツにおける女性の社会的地位が変わったと思うんです。……中世のフランクフルト・アム・マインのツンフトには、女性だけの職種がかなりあります。二百ほどある職種のなかで非常に多くの部分を女性が占めている。さらに、女性の親方もいました。……女性は非常に多くて、女性が入っていないツンフトのほうが少ないんです。女性だけのものもあります。

ところが、どうしてツンフトやギルドに女性がいないという通説が生まれたのかというと、16世紀の初頭から、女性は家庭にいるものだという主張が出てくるんです。これは、宗教改革者、神学者、それから人文主義者たちが先頭をきるんですが、そのころに諸身分の絵が出てきます。その基本思想は、ツンフト、ギルドには武装することができる人間が加入する、町の防衛に参加する単位ともなっている。女はそれができないから家庭にいるものだというんですね。ルターもそういう考え方をしていますし、それ以後の近代、18世紀、19世紀に至るまで、学者たちのそういう論調が非常に強くなります。

網野善彦阿部謹也『対談中世の再発見』)

 宗教改革(1517年)の前後から知識人たちが「女性は家庭にいるものだという主張」をするようになる。この絵が描かれた頃は、まだ女性たちの職場からの締め出しがない、ということになる。

そのせいだろうか、女性には強い意志と気品が表わされているような気がする。

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ロベルト・カンパン《女の肖像》40 × 27 cm 、1430-35年頃、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

 

装飾写本の挿絵を起源とする初期フランドル派

初期フランドル派は15世紀から16世紀にかけてネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクとフランス北部、ドイツ西部を含む低地諸国)で活動した芸術家たちとその作品群を指す美術用語だ。

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初期フランドル派の起源は装飾写本の挿絵にあるとされている。

ランブール兄弟による《ベリー公のいとも豪華なる時祷書》 も初期フランドル派に含まれる装飾写本だ。

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ランブール兄弟作《ベリー公のいとも豪華なる時祷書》(2月)1412-16年、コンデ美術館

初期フランドル派が活動していた時期のフランドルはブルゴーニュ公国に含まれていた。ブルゴーニュ公国では、14世紀後半から15世紀半ばまで、宮廷に華やかな騎士道文化が開花していた。初期フランドル派の最初のピークの時期は騎士道文化の後期と重なる。

ブルゴーニュ公国で花開いた騎士道を伝えてくれるのは次の絵だ。

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バルテルミー・デック作《恋する心の書》1458-60年、オーストリア国立図書館

騎士道文化は近代社会にリバイバルを遂げるファンタジーだが、初期フランドル派そのようなファンタジーから出発したのだといえる。

イタリアルネッサンス古代ギリシャやローマの文芸復興だとするならば、初期フランドル派は中世騎士道の延長上に花開いたといえるだろう。

中世騎士道物語はファンタジーであるとともに、ラテン語ではなく土地の言葉(ロマンス)で書かれた物語だった。

初期フランドル派は、イタリアルネッサンスのような普遍的なテーマを描くのではなく、土地の言葉で描く絵であったといえるだろう。

 

乳幼児を農家に里子に出す風習

ヨーロッパの貴族階級や富裕層には、乳幼児を農家の乳母に預けるという風習があった。社会史家のエリザベート・バダンテールによると17世紀からブルジョワジーのあいだでその風習が広まったようだ。

数多くの資料によれば、里子の習慣がブルジョワジーのあいだに広まったのは17世紀のことである。この階級の女たちは、子育てのほかにすることがたくさんあると考え、そう公言してはばからない。(中略)だが、里子の習慣が都会のすべての階級に浸透するのは18世紀になってからである。貧しい者から裕福な者まで、大都市だろうと小さな町だろうと、子どもが田舎へ送られるのは、一般的な現象だった。

エリザベート・バダンテール『母性という神話』鈴木晶訳)

文中の里子というのは、乳幼児を農家の乳母に数年にわたって預けることをいう。

次の絵は16世紀後半の作品で、農家の乳母に乳幼児が預けられるシーンが描かれている。

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マールテン・ファン・クレーフェ作《乳母への訪問》16世紀後半。

画面左で背中を向けてジョッキを振っているのは領主だ。中央で赤ん坊を抱いているのが乳母で、赤ん坊をくるんでいたシーツを持っているのが領主の妻で赤ん坊の母親だ。

手前には農家に相応しくない立派な揺り篭が置かれている。

領主夫妻がこの赤ん坊の両親で、農家の乳母に赤ん坊を預けに来たシーンが描かれている。

マールテン・ファン・クレーフェ(1527-1581)はピーテル・ブリューゲル(父 1525-1569)とほぼ同時代のフランドルの画家で、アントウェルペン(ベルギー)で活動している。

農家の土間では、鶏やアヒルや豚、猫たちが人間と入り混じって暮らしている。右側の土間の出入り口には農作物を運び入れる農民の姿が見える。農民たちは領主が訪問してきたからといってかしこまってはいない。日常生活のままで迎え入れるだけだ。

領主夫妻も農家の一員となって寛いでいる。

ブルジョワの時代が開始されるまでは、人間と動物たちが入り混じる農家の雑多な家で領主が寛ぐことができたのだ。乳幼児を農家に里子に出す風習の背景には、そのような領主と農民との隔てのない関係性があったのだろう。

ブルジョワの時代とともに、そのような関係性が失われたまま、乳幼児を里子に出す風習が広まっていったようだ。