rapanse’s diary

ポストモダンの視点で絵画を楽しみ、沖縄のシマ社会と芸能を楽しむ

装飾写本の挿絵を起源とする初期フランドル派

初期フランドル派は15世紀から16世紀にかけてネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクとフランス北部、ドイツ西部を含む低地諸国)で活動した芸術家たちとその作品群を指す美術用語だ。

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初期フランドル派の起源は装飾写本の挿絵にあるとされている。

ランブール兄弟による《ベリー公のいとも豪華なる時祷書》 も初期フランドル派に含まれる装飾写本だ。

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ランブール兄弟作《ベリー公のいとも豪華なる時祷書》(2月)1412-16年、コンデ美術館

初期フランドル派が活動していた時期のフランドルはブルゴーニュ公国に含まれていた。ブルゴーニュ公国では、14世紀後半から15世紀半ばまで、宮廷に華やかな騎士道文化が開花していた。初期フランドル派の最初のピークの時期は騎士道文化の後期と重なる。

ブルゴーニュ公国で花開いた騎士道を伝えてくれるのは次の絵だ。

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バルテルミー・デック作《恋する心の書》1458-60年、オーストリア国立図書館

騎士道文化は近代社会にリバイバルを遂げるファンタジーだが、初期フランドル派そのようなファンタジーから出発したのだといえる。

イタリアルネッサンス古代ギリシャやローマの文芸復興だとするならば、初期フランドル派は中世騎士道の延長上に花開いたといえるだろう。

中世騎士道物語はファンタジーであるとともに、ラテン語ではなく土地の言葉(ロマンス)で書かれた物語だった。

初期フランドル派は、イタリアルネッサンスのような普遍的なテーマを描くのではなく、土地の言葉で描く絵であったといえるだろう。

 

乳幼児を農家に里子に出す風習

ヨーロッパの貴族階級や富裕層には、乳幼児を農家の乳母に預けるという風習があった。社会史家のエリザベート・バダンテールによると17世紀からブルジョワジーのあいだでその風習が広まったようだ。

数多くの資料によれば、里子の習慣がブルジョワジーのあいだに広まったのは17世紀のことである。この階級の女たちは、子育てのほかにすることがたくさんあると考え、そう公言してはばからない。(中略)だが、里子の習慣が都会のすべての階級に浸透するのは18世紀になってからである。貧しい者から裕福な者まで、大都市だろうと小さな町だろうと、子どもが田舎へ送られるのは、一般的な現象だった。

エリザベート・バダンテール『母性という神話』鈴木晶訳)

文中の里子というのは、乳幼児を農家の乳母に数年にわたって預けることをいう。

次の絵は16世紀後半の作品で、農家の乳母に乳幼児が預けられるシーンが描かれている。

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マールテン・ファン・クレーフェ作《乳母への訪問》16世紀後半。

画面左で背中を向けてジョッキを振っているのは領主だ。中央で赤ん坊を抱いているのが乳母で、赤ん坊をくるんでいたシーツを持っているのが領主の妻で赤ん坊の母親だ。

手前には農家に相応しくない立派な揺り篭が置かれている。

領主夫妻がこの赤ん坊の両親で、農家の乳母に赤ん坊を預けに来たシーンが描かれている。

マールテン・ファン・クレーフェ(1527-1581)はピーテル・ブリューゲル(父 1525-1569)とほぼ同時代のフランドルの画家で、アントウェルペン(ベルギー)で活動している。

農家の土間では、鶏やアヒルや豚、猫たちが人間と入り混じって暮らしている。右側の土間の出入り口には農作物を運び入れる農民の姿が見える。農民たちは領主が訪問してきたからといってかしこまってはいない。日常生活のままで迎え入れるだけだ。

領主夫妻も農家の一員となって寛いでいる。

ブルジョワの時代が開始されるまでは、人間と動物たちが入り混じる農家の雑多な家で領主が寛ぐことができたのだ。乳幼児を農家に里子に出す風習の背景には、そのような領主と農民との隔てのない関係性があったのだろう。

ブルジョワの時代とともに、そのような関係性が失われたまま、乳幼児を里子に出す風習が広まっていったようだ。

 

 

アメリカの素朴派の画家、グランマ・モーゼス

グランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)と呼ばれるアンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860 - 1961)は、アメリカの素朴派の画家だ。

素朴派というのは、正式な美術教育を受けたことのない作家によって制作され、独学ゆえにかえって素朴さや独創性が際立つ作品をさす。税関に勤めながら展覧会に出品していたアンリ・ルソー(1844-1910)などに代表される。

貧しい農家に生まれたモーゼスは12歳から奉公に出て、27歳で結婚、子どもを10人産むが、そのうち5人を幼いうちに亡くしている。70歳で夫を亡くす。

絵を描き始めたきっかけはリュウマチだ。手が動かなくなってからリハビリをかねて油絵を描き始めた。75歳のことだ。

1940年に80歳で個展を開き、一躍著名画家の仲間入りを果たす。

1949年(89歳)には、トルーマン大統領によってホワイトハウスに招待される。

101歳で死去するまでグランマ・モーゼスは、1600点もの作品を残したという。本格的に絵を描き始めてから、毎年60点以上の作品を仕上げ続けていたことになる。

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慈悲は神に対する贈与だった

ピーテル・ブリューゲル(子)の作品に《慈悲の七つの行い》という絵がある。七つの行いというのは、新約聖書の「マタイによる福音書」によるもので、死者の埋葬、囚人の慰問、食物の施与、衣服の施与、病気の治癒、巡礼者の歓待、飲物の施与のことをいう。

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

(「マタイによる福音書」25章34~40節)

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ピーテル・ブリューゲル(子)作《慈悲の七つの行い》43.5 × 58.6 cm  アントワープ王立美術館

ピーテル・ブリューゲル(子)の作品はピーテル・ブリューゲル(父)の版画の下絵に基づくものだ。

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ピーテル・ブリューゲル(父) 《慈悲》 22.3 × 29.4 cm、1559年、 ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館

絵が左右反転し、絵の中心に慈悲を象徴する女性(女神)が描かれていないことをのぞくと、子の作品は父の作品を忠実に模したものだといえる。

父の作品が描かれたころは、フランドル地方宗教戦争の真っ最中だった。哲学者のミシェル・フーコーによると、宗教戦争のあいだに貧困(=悲惨)は神聖さを失い、17世紀には無為怠惰が悪徳とみなされるようになっていく(『狂気の歴史』)。貧困(=悲惨)な者は無為怠惰な者とされ、取り締まりの対象となっていくのだ。

慈悲は神に対する贈与だった。神に対する贈与という意識が失われると、慈悲は神聖さを失い、施しという人間的な行為に変化していく。

まだ慈悲が生活の中で生きていた時代を、親子二代にわたって描いたのだといえる。子の作品の中では慈悲を象徴する女性(女神)が描かれなくなる。それは慈悲の変化を物語るものだ。しかしまだ貧困(=悲惨)を悪徳だとする見方を持っていない。

そこにぼくたちは救われるのだといえる。

聖霊降誕祭の子どもたちのパレード

聖霊降誕祭はキリスト復活の日から50日を経過した日のことをいうらしい。
その日は使徒たちに聖霊が降りてきて、使徒たちは異国の言葉をしゃべり出したという。
ユダヤ教では穀物の収穫を感謝する祭りとされる。

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ピーテル・ブリューゲル(子)《聖霊降誕祭の新郎新婦》

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(細部)

聖霊降誕祭のあいだじゅう、子どもたちは村の通りをパレードしたようだ。
最前列にはヴァイオリンを弾く子どもと太鼓を叩く子どもがいる。
その右側では、お姉さんらしき子どもが、小さな子どもにうんちをさせている。
豚がそのうんちを食べに来ている。
右の家からは、子どもたちにお布施をやろうと、おかみさんが慌てて飛び出してくる姿が見える。

描かれた一人びとりの仕草や表情がなつかしい。

この絵の情景から、立ち去るのはむつかしい。  

ヒエロニムス・ボス作《行商人》

ヒエロニムス・ボス(1450年頃~1516年)はネーデルラント(フランドル)の画家。
ルターによる宗教改革(1517年)の直前に亡くなっている。

ネーデルラント宗教改革の嵐が吹き荒れた地域だった。
ボスの死後、16世紀後半には宗教改革による聖像破壊運動でボスの作品のほとんどは失われ、
現在はわずか30点が残されているとされている。
ボスの作品を見ると、宗教改革前の世相がうかがえるように思える。

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ヒエロニムス・ボス作《行商人》1494-1516 年、 ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館、ロッテルダム

行商人は襤褸(ぼろ)をまとい乞食同然の姿だ。
彼を迎え入れる家はなく、犬は彼の後ろで吠えたてる。
左隅に豚が餌を食べている姿があるので、絵のテーマは「放蕩息子の帰還」なのかもしれない。
新約聖書の「ルカによる福音書」15章に「放蕩息子のたとえ」がある。
父から財産を等分に与えられた兄弟のうち、弟は家を出て放蕩し財産を消費した後、豚の世話役となり、その餌で餓えを凌いでいたが、最後には実家へと戻るものの、父は息子の帰還を喜び祝福を与えるという物語だ。

しかし彼に帰る家などあるのだろうか。
彼は地上をさすらうだけの存在に過ぎないのではないのか?
絵にはそのような不安が描かれている。

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 《行商人》細部

彼を追い出した家、あるいは彼を迎え入れなかった家は、娼家なのだろうか。
右から、家の隅に小便をする男の姿が描かれ、
窓から不審げに彼を見る女性の姿があり、
戸口では男女がいちゃついている。
みんな大きな罪ではなく、小さな罪ばかりだ。
小さな罪を犯すものたちはさすらいの行商人を受け入れることはなく、
行商人は不安なままに旅を続ける。

時代は中世の大きな物語が終焉し、市民社会へ向かおうとしていた。
宗教改革という次の時代の大きな物語に火が点けられるまで、
行商人は居場所もなく、追い立てられなくてはならない。

悪魔のような笑い

ヤーコブ・コーネリス・ファン・オーストサネン(1472-1533)はネーデルラント北部(現在のオランダ)の画家だ。
アムステルダム(オランダ)近くのオーストサネンで生まれ、アムステルダムで活動している。

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ヤーコブ・コーネリス・ファン・オーストサネン作 《笑う道化師》1500年、 ウェルズリー大学デイヴィス美術館

オーストサネンの絵でびっくりするのが、この道化師の笑いだ。
愉快な笑いというよりも、人間たちの愚かさを笑う悪魔のような笑いだ。

この笑いの向こうには何があるのだろうか。
この絵の描かれた時代、ヨーロッパの中世は終わりを告げるようとしていた。
宗教改革(1517)の足音は、間近に迫っていた。
この悪魔のような笑いが、宗教改革という大激動の前触れとなったのだろうか。