ネーネーたちによって乳飲み子は守られ、戦後の沖縄は立ち直っていった。
戦禍の中を逃げ惑い、乳飲み子を守護したこのネーネーたちによって、戦後の沖縄は立ち直っていった。
弱い者が戦争の犠牲者になる
弱い者が戦争の犠牲者になる。この子は栄養失調状態だ。いつ頃から壕にこもっていたのだろう。食べ物は与えられなかったのだろうか。
成人男性の見当たらない家族の姿:1945年4月中旬以降の沖縄戦
名護市田井等(たいら)は、沖縄最大の捕虜収容地区だった。
米軍は1945年4月中旬、現在の名護市田井等に軍政本部を設置し、本部町・名護町方面の避難民の収容を開始した。
8月には田井等とその周辺地域に5万5千人を収容。
9月には田井等市となり、市会議員・市長選挙も行われた。10月末に避難民の帰村が開始されると人口が急減し、11月には市制が廃止され、誕生からわずか3ヶ月弱で田井等市は消滅した。
写真を見ると、老人と女子どもの集まりであることがわかる。
日本は1947年にベビーブーマーと呼ばれる団塊世代が誕生する。それに比べ沖縄で戦後の出生率がピークに達するのは日本より4年遅れ、1951年まで待たなければならない。沖縄戦において、それだけ多くの成人男性が失われたのだ。
沖縄戦、子守りする兄たち
兄が弟妹を子守りする姿が目立つ。守姉は自分の弟妹だけではなく、頼まれて近所の子どもの子守りをしたそうであるが、そのような子守りは男の子には頼まれることはなかった。だから男の子が赤ん坊を子守りする場合は、自分の弟妹だろうと思われる。
兄たちは茫然自失とし、困惑している。
1945年5月1日の沖縄戦:死を待ち望む表情だろうか。
おそらく老人は死を待っていたのだろう。次に記された男性のように、子どもを亡くし、母や妻を葬ったのかもしれない。死を待ち望む人間には、爆撃は何の恐怖の対象にもならないのだ。
独立高射砲第27大隊、通信班・陸軍二等兵の回想:
この司令部壕はかなり急な坂道の上にあったが、見下ろすと小径のほとりに仏桑華の花がいまを盛りと咲きほこっていた。…花陰の中に初老の男がひとり膝をかかえてうずくまっていた。何をしているのか気になり、「そんなところにいたら危ないですよ」と声をかけた。すると男は顔を上げ、「もういつ死んでもいいんです」と物憂げに答えた。「どうしたんです」
「はい、長男も死んだし、母もゆうべ死んでしまいましたから」そういうと、男はぽつりぽつりと話し出した。
「長男は師範学校の4年生でしたが、軍の伝令に召集されて首里で戦死したのです。母は家族が北部へ避難しようというのを聞かず、どこにいても死ぬときは死ぬ。おなじ死ぬならご先祖さまの亡くなったこの家で死にたいといって動こうとしないのです。しかたがないので私だけが残って面倒をみていたのですが、そのうち少しあった食べものもなくなりました。困ったことになったと思いましたが、わしはもうこの歳だから何もいらないと水ばかり飲んで、昨夜とうとう死んでしまったのです。88歳でした。私は母の遺言どおり行李にしまってあった一番いい着物を着せ、背中に負って先祖の墓へ運んで行こうとしたのですが、骨と皮になっているはずの母がどうしたことか、重くて、重くてとうとう途中で歩けなくなってしまったのです。それで引き返して母を戸板にくくりつけ、縄でお墓まで引っぱって行ったのですよ」
男は、それから漆喰で固めた墓の石蓋をあけて寝棺に母の遺骸を納め、あとは漆喰の替わりに畑の土を練って目張りをし、ようやく、わが家に帰って来たというのである。
「どうして母があんなに重たかったのかと不思議でしたが、自分の足を見てやっと気がつきました。脚気にかかっていたんです」
そういって男は両脚を出して見せた。なんと二本の脚は丸太棒のように膨れあがり、とても人間の脚には見えなかった。男は花の下で静かに死を待っていたのである。私はことばに窮し、ただうなずいて立ち去るほかなかった。
《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 85-87頁より》